しかし、張り切るあまり、またしても腰を痛めてしまう。このため練習で走り込みの量をこなしても、いつも途中で歩き出してしまう始末だった。そんな不十分な状態で出場した世界陸上では、バルセロナに行くという強い気持ちで走り抜き、日本勢では2位の山下佐知子に次ぐ4位に入賞する。タイムは予想を上回る2時間31分08秒だった。

「レースに出ないなら、代表は辞退しろ」

 だが、山下が五輪代表の座を確実にする一方で、有森が選ばれるかどうかは、このあとの東京、大阪、名古屋の各国際大会の結果しだいとなる。五輪開幕の半年前、1992年1月の大阪国際女子マラソンには足の故障のため出場できなかったうえ、自分の持つ最高記録を小鴨由水と松野明美に破られてしまう。有森はすっかり動揺し、岡山の実家へ泣きながら電話をかけたこともあった。

 代表選考は、山下に続き小鴨が決まり、残る1枠を有森と松野で争うことになった。松野陣営は記者会見をして日本陸連に異例のアピールを行い、マスコミ報道も過熱する。そのなかで有森の実家には「レースに出ないなら、代表は辞退しろ」などといった心ない手紙や電話があいつぐ。

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 3月の最終選考まで彼女の心は、楽観と悲観のあいだで激しく揺れ動いた。しかし、いざ代表に決まると、明鏡止水の気持ちになり、あとはオリンピックまで自分がどれだけやれるかだけだと切り換えることができたという。

「1番だ」と言う言葉を耳にして

 こうして迎えたバルセロナ・オリンピックでは、スタートしてからも30キロ地点までは飛び出すなと事前に小出監督から言われており、その少し手前で集団から抜け出す。この時点でロシアのワレンティナ・エゴロワ(同大会には前年に崩壊した旧ソ連諸国の統一チーム=EUNで出場)がトップを走っていたが、有森は2人抜いたところで、誰かが「1番だ」と言うのを耳にして、自分がトップだと思い込んだという。

 だが、大通りに入って、目の前を走っていた先導車が横によけた瞬間、エゴロワの背中が見えたのでショックを受ける。

 それでも36キロ付近でエゴロワに追いつくと、38キロからの急坂、コース最大の難関といわれたモンジュイックの丘で、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。だが、そのうちに体力を消耗して並走するだけで精一杯となり、残り1キロ弱でスタジアムが見えた瞬間、エゴロワにスパートをかけられ、一気に引き離された。