「実績が欲しい」と決意した出来事
この間、国民体育大会(国体、現在の国民スポーツ大会)に出身地の岡山県代表として出場しようと、最終予選にトライすると1万メートルで1位となり、本選進出を決める。だが、直後に、彼女の選手登録が岡山県ではなく会社のある千葉県になっていたことが判明し、失格になってしまう。
クラブのスタッフの登録ミスだったが、抗議しても謝罪はなかった。小出からは「おまえに実績があれば、こんなことにはならなかった。悔しかったら、人に覚えてもらえるような選手になるしかない」と言われる。これに対して彼女は「わかりました」と返したものの、なお釈然としないものが残った。
《そこからですね、自分本位で走ろうと思ったのは。もう、周りの子のことはどうでもいい。誰にもとやかく言わせない実績が欲しい》と決意したと、有森は後年振り返っている(『週刊ポスト』2008年8月1日号)。
「私の目標はオリンピック」
苦い経験をしながらも、その後、1989年秋の実業団女子駅伝で区間賞をとるなどいくつかのレースで好タイムをマークし、1990年1月、初めての大舞台として大阪国際女子マラソンに出場する。このとき6位でゴールし、タイムは2時間32分51秒と初マラソンにおける当時の日本最高記録を出す。
この直前、彼女は足の故障でドクターストップがかかり、それでも練習を続けたかったが、小出から厳命されてレース3日前までは鍼治療に専念した。レース中にも足が痛くなり、棄権が頭をよぎったところへ、沿道から少年野球団の子供たちの声援が聞こえてきて、せめてそれが途切れるまではと走り続けるうち、応援は延々と続いたので最後まで走り切れたという。
この大会後、激しい腰痛にみまわれ、鍼治療を受けながらも、基礎体力をつけるのと2時間30分を切ることを目標に、小出から月900キロの走り込みという男子でもやらないようなハードな練習を課された。
有森は腰痛に耐えながらも走り続け、翌1991年1月、2度目の大阪国際女子マラソンでは、2位ながら2時間28分01秒と見事目標を達成したうえ、当時の日本最高記録をマークする。これにより同年8月の世界陸上・東京大会への出場権も獲得し、翌年のバルセロナ・オリンピック出場も夢ではないとの声も上がり始めた。
本人も大阪でのレース前からすでにバルセロナを目標に定め、スペイン語も習い始めていた。3月に世界陸上の代表が決まったときの記者会見でも、ほかの選手が「東京でベストを尽くす」と抱負を語るなか、彼女は「私の目標はオリンピック」と堂々と述べた。
