いまから30年前の1996年7月28日は、有森裕子がアトランタ五輪の女子マラソンで銅メダルを獲得した日だ。「自分で自分をほめたい」という名言を残した彼女は、五輪後も信念を貫き、日本初の「プロランナー」への道を切り拓いていく。だが、そこにはバッシングの声も……。40歳まで現役を続け、2025年6月には女性初となる日本陸上競技連盟会長に就任した彼女の“現在地”とは。(全4回の4回目)

有森裕子(2025年6月、日本陸上競技連盟の新会長に選ばれた際の記者会見で) ©時事通信社

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 アトランタ五輪で目標どおりメダルを獲得すると、まもなくして彼女はアスリートを取り巻く環境を改善するため動き出す。具体的な第一歩は、1996年暮れに7年あまり所属したリクルートから独立して、翌年年明けからは個人のアスリートとして同社と業務委託契約およびエージェント契約を交わしたことだ。

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 その少し前、彼女はあるインタビューで、今後は職業欄に何と書くのかと訊かれ、首を傾げて《「会社員」? うーん……》としばらく考えると、《私の仕事は、生きることなんです。今までは、生きることの代名詞として走ってきたけど、これからの私の仕事は……走りながら、生きていくことです》と答えていた(『プレジデント』1996年10月号)。

プロ転向で受けたバッシング

 彼女の目指すプロのアスリートとは、CMや講演活動で収入を得て、そこから生活資金だけでなく自身のチームの運営資金を捻出してレースに臨むというものだった。

 しかし、当時は、アマチュア選手が競技や選手の立場を利用して金銭を得ることは、各競技団体(陸上のばあい日本陸上競技連盟=陸連)の規定により認められていなかった。これに加えて、選手の肖像権はJOC(日本オリンピック委員会)が「がんばれ!ニッポン!」キャンペーン制度のもとで一括管理していたため、CMなどへの出演には制約があった。

 そのため、有森はリクルートから独立するのと同時に、陸連に対して実質的なプロ活動の承認を要請した。陸連側はJOCと調整して結論を出すとしたが、「ひとりに特例を認めるわけにはいかない」との反対もあって難航する。