祖母とも縁のある“メダリスト”の命日に

 結果は2位。それでも有森がレース前に掲げていた目標が6位であったこと、そしてベテランのエゴロワを相手に堂々と勝負したうえでのこの結果だと考えると、予想をはるかに上回る大健闘であった。彼女自身も、《二位だったから悔しくなかったかとか聞かれても、そんなことはまったく頭になかったし、相手に負けたことなんか全然考えてませんでした》と振り返る(『婦人公論』1993年3月号)。

1992年のバルセロナオリンピックで銀メダルを獲得した有森裕子(左)と金メダルを獲得したロシアのエゴロワ ©文藝春秋

 オリンピックの陸上競技における日本女子のメダル獲得は、1928年のアムステルダム大会の800メートルで銀メダルを獲得した人見絹枝以来64年ぶりだった。奇しくも、有森がバルセロナで銀に輝いた8月2日(日本時間)は、人見がアムステルダムで同じ色のメダルをとったのと同じ日であり、1931年に24歳で逝った命日でもあった。

 そればかりか、人見も有森と同じ岡山出身で、有森の祖母の県立岡山高等女学校(現・岡山操山高校)の1年先輩だった。祖母からはよく、自分の学校の先輩がオリンピックで大活躍して誇らしかったといった話を聞かされていたという(有森裕子『アニモ』メディアファクトリー、1997年)。

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人見絹枝 ©文藝春秋

掌返しの報道陣に…

 バルセロナから帰国すると空港で報道陣に取り囲まれた。先の代表選考をめぐってはマスコミから批判も受けただけに、このときの対応には掌を返されたような感じもあった。しかし、これについて本人は、直後のインタビューでさらっとした調子でこう語っている。

 《これでメダル獲ってこなかったらどういう扱いを受けたのかとは思いましたし、扱い方の変わり方のちょっと(いや)な部分も少しありますけど……ま、悪いほうにとらずにラッキーかなというふうにとりたいですね。こういうことでツブれる人は、自分でツブれるんだな、と思いました》(『週刊現代』1992年11月1日号)

 バルセロナ五輪で銀メダルを獲得したことで自信をつけた彼女は、次のステージに向けて踏み出そうとする。だが、それは新たな苦難の始まりであった。(次の記事に続く)

次の記事に続く 「彼女が自ら命を絶つのではと心配して…」両足の手術、周囲からの孤立…有森裕子(当時29)がアトランタで“伝説の走り”を見せた理由

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