占領下に受けた傷の深さ
社会学者であるリットは2011年にシンガポールの大学を退職すると、マレーシアやシンガポールの華人へのインタビューを始めた。戦争にまつわる地域史を掘り起こすことが目的だった。面会を重ねると、占領下の記憶に苛まれ続けている人の多さに気づかされた。
90歳近い男性からは、彼が6歳の時に小さな村であった「粛清」について聞いた。弟が目の前で銃剣で突き刺され、自分も背中から刺されて気を失った――。そう語りながら、男性はレストランで人目もはばからずに泣き崩れた。
リットは10年以上をかけ、100人以上の華人に話を聞いた。母と同郷の女性からは、母の記憶に符合する証言も得た。多くが家族や親族を亡くし、度重なるフラッシュバックや悪夢に苦しんでいた。高齢女性の多くは、「先生に話したら、日本兵が処刑しに来ませんか」と不安げに尋ねてきた。こうした聞き取りを経て、リットは、2017年に亡くなった母もそのひとりだったと、やっと理解した。「傷の深さを分かってあげられなかった。ごめん」。母への思いがリットの心に湧き出る。
マレーの「華人虐殺」とは
日本軍の加害行為や戦犯裁判に詳しい関東学院大学の林博史名誉教授は、マレー半島での日本軍の作戦の特徴として、「『抗日活動をするかもしれない』と見なした人物を先に殺す『予防殺人』とも言える方針がとられた」と指摘する。
アジア・太平洋戦争が始まった1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の1時間前にマレー半島に侵攻した。翌年の2月にはシンガポールを攻略。その直後から主に3月末にかけて、現在のマレーシアとシンガポールの各地で多数の華人を殺害した。
そのうち、マレー半島南部のネグリセンビラン州を担当した日本陸軍中隊の行動記録「陣中日誌」には、1942年の2~3月の項に「迅速ナル治安粛清ニ任ズ」「支那人部落多数ニシテ、全部落民ヲ集メ、訊問調査シタル後不偵分子156ヲ刺殺」などの記載がある。そのほか、3月4~21日には、計584人の「敵性分子」を「刺殺」したとも記されている。
マレー作戦では、主力となった部隊やその指揮官たちは日中戦争から転戦した。林によると、中国大陸で、ゲリラ活動に苦しんだ日本軍は敵への協力者とみなした住民らを現場の判断で処刑する「厳重処分」を行った。マレー半島を占領した日本陸軍第25軍が作った「華僑工作実施要領」では、「協力を惜しむ者に対しては、断固その生存を認めざるものとする」との方針が示されており、「非協力者は殺害する」という手法がマレーにも適用されたと考えられるという。
マレーシアやシンガポールでの正確な犠牲者数は分かっていない。華人団体が日本の敗戦直後の1947年にまとめた書籍『大戦与南僑』には、女性や子どもも殺されたとする各地の証言が掲載されている。こうした犠牲者の慰霊碑は、両国の各地に建てられている。


