堀川惠子が取材で大切にしているポリシー
――取材をするとき、大切にしている信条などありますか? 真実の掘り起こしともなれば、門戸が閉ざされているような相手のところに取材にいくことが多いですよね?
堀川 基本的に、人が話したくないことを聞かせてくれって行くのがノンフィクション作家の仕事なので……心がけていることって言ったら、こちらを全部さらけ出すだけですよね。とにかく虚勢を張らない。
――知ったかぶりをしないということでしょうか?
堀川 そうです。人の心なんて、分からないことだらけですから。難しいのは、取材の手法や接し方において、ある人にはうまくいったことが、また別の人にうまくいくとは限らなくて、人それぞれ違う。結局、いろいろな人を取材してきて私が落ち着いた結論は、虚心坦懐(きょしんたんかい)にお話を聞かせてほしい、というスタンスでい続けることですね。もちろん、戦わなきゃいけないときも出てくるけど。
――戦うとは、どういうときでしょうか。
堀川 うーん、たとえば、相手の嘘や矛盾に気付いたとき。「それは嘘ですよね」とは言わずに、自分の中に置いて熟成をさせる。なぜこの人はこういう嘘をつくんだろう、とか、なぜこういう言葉が出るんだろうっていうことに思いをめぐらして、その人の心情に少しでも近づくために“嘘”も大事な一つの足がかりにします。つまり、自分と闘うんですね。
――この『原爆供養塔』の取材のときも、そんなことはありましたか?
堀川 たくさんあります。ご遺族のところへ伺ったら、みなさんやはり当然辛くて思い出したくない話ばかりですから、自分は関係ないというような拒絶もされたし、“嘘”のストーリーをつくって取材をそれ以上受け付けないような方もたくさんいらした。でも、そういうところからちょっとずつちょっとずつ、「竹刀」を決して手放さず、剣道でいうところの「間合いを詰めていく」という感じで、でも相手に恐怖感を与えないように心がけながら話を伺っていきました。
――『原爆供養塔』では、少年特攻兵の存在も出てきます。若い命が真っ先に脅かされるという戦争の厳しい現実が描かれています。
堀川 広島市沖に浮かぶ江田島は海軍兵学校の島として知られていますが、実は同じ島の北側の幸ノ浦地区に陸軍の“秘密基地”があった。昭和19年8月以降、全国から少年兵が集められ、米軍の本土上陸に備え、迎え撃つための特攻隊として訓練を日々行っていました。でもそれが、原爆が投下された直後に、市民の救護のために爆心地に向けて出動し、放射能で汚染された死の街で、原爆で亡くなった人たちの死体を焼いて葬る仕事を担い、二次被爆をすることになります。
8月6日当日の昼すぎには、先発隊の100人が被災者が運ばれてくる似島へとすぐに送られた。そして、残りの少年兵たちで救援隊が組まれて、燃え盛る広島市内に続々と送られていった。
それもいってみれば、戦争の一面なんですよね。機動力からいえば江田島にいた海軍兵学校の若者たちの方がはるかに優れていたと思う。だけれども、そういった人たちは将来の戦力として温存されて、この言葉はあまり好きじゃないけれども、名もなき10代の陸軍の特攻要員の若者たちが、いの一番に投入されていった。彼らは全国津々浦々、農村漁村から根こそぎ動員で集められた少年兵たちで、戦後、郷里に帰ってから、多くが若くして亡くなっています。それが原爆症によるものなのか、何のデータも残されていません。
(3回目に続く)



