昭和16年12月8日の正午と午後7時、NHKラジオで「開戦の詔書」が捧読された。太平洋戦争の開戦において、米英と戦うことを決意した昭和天皇の意思が込められた文章とされるが、完成までには8つの案を要したという。ノンフィクション作家の奥野修司氏が、詔書の謎に迫った記事「昭和天皇『日米開戦』7つの謎」から一部を紹介します。

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ひそかに作られた「骨子」

 1、天皇はいつ開戦を決意し、詔書はいつ書き始めたのか。

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『昭和天皇実録』(以下『実録』)によれば、昭和天皇が初めて詔書についてふれたのは10月13日で、「宣戦の詔書を発する場合には(略)十分に自分の気持ちを取り入れてもらいたき旨の御希望を述べられ」たとある。9月6日の御前会議で一気に対米戦争が現実味を帯びてきたが、その後も日米交渉が妥結する見込みはなく、天皇は最悪の事態を考えたのだろう。それ以来、12月1日の御前会議まで、天皇と詔書の関係は『実録』に現れない。

大元帥・昭和天皇

 詔書案の審議で事務方の中心だった当時内閣官房総務課長の稲田周一の手記によれば、10月末から詔書案を検討している。木戸から依頼されたのだろうか。その後は特に記述はなく、あわただしく展開するのは「対米英蘭戦争を決意」した11月5日の御前会議からである。

 この数日後、内閣と軍部で「対米英開戦名目骨子」がひそかに作成された。戦争の目的を綴ったもので、詔書案の基礎になるものだった。「大東亜の新秩序を建設」するのは我国の国是であり、それを妨害する米英には「干戈を執りて一切の障礙を破砕する」といった内容である。11月半ば、稲田はこの骨子をもとに詔書案を作成する。

 同じ頃、東条総理は徳富蘇峰へ文案の修正を依頼した。〈「祖宗の神霊上に在り」のことばは徳富蘇峰氏の挿入した文句である〉(『東條内閣総理大臣機密記録』)という。当時の徳富は「米英撃つべし」と戦争を煽っていた言論人の筆頭だった。

東条英機

 稲田が星野直樹書記官長と案を練りながら第一稿を書き上げると閣議に諮るが、東条が天皇に第1案を見せたのは、12月1日の御前会議の前だろう。前出の『機密記録』12月1日付にこうある。

〈殊に日英同盟のこと、お上が英国で特に其皇室と親交を結び滞英中色々と世話になられたことなどをお話しされた……。宣戦の大詔に豈朕が志ならんやとはお上が特に仰られて挿入した文句である〉

「最初にできた詔書案を天皇に見せたのが12月1日で、天皇が『それでは不満だ』ということで直していったのでしょう」と歴史学者で元中央大学文学部教授の佐藤元英氏が言う。この日から開戦の前日まで、東条は毎日のように案を修正しては天皇に報告したようだ。