依存症臨床の第一人者である信田さよ子氏が、名著『依存症』から26年を経て「アディクション」の現在地を記した『溺れながら生きる 依存とケアのあいだで』。生き延びるための生存戦略としての依存やトラウマケアの視点から最新地平に迫った一冊だ。本書のまえがきより一部抜粋してお届けする。
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ふりかえってみれば、『依存症』(文春新書)を上梓してから26年になる。私が54歳の時の本である。酒の飲みすぎがアルコール中毒(アル中)であり、アルコール依存症はもっと軽症なひとを指すと思われていた時代に、初めて「アルコール」以外の依存症について、社会文化的視点から著した一冊だった。
1990年代の終わり、カウンセリングの仕事が終わってから地下鉄で麴町の文藝春秋の社屋まで行き、今はあるかどうかわからないが、ベッドも備え付けられたいわゆる缶詰部屋でワープロに向かって書いた。窓からはホテルニューオータニの夜景が見えた記憶がある。まだノートパソコンなどない時代だ。参考文献などもなく、ひたすら頭に浮かぶことをキーボードで打ち込んだ。50歳を過ぎて初めて新書を書くなんて、今だってかなりの冒険である。それでもやはりあの頃の私は若かったし、勢いがあった。それほど苦労なく一冊を書き上げることができた。
さいわいに『依存症』は今でも読まれるロングセラーの一冊となった。その「終わりに」で私はこう述べている。「我々は今、『依存症の時代』を生きていると実感する」。それから26年経った今、改めてその言葉を繰り返そう。「わたしたちは今、『アディクションの時代』を生きていると実感する」と。
アルコール依存症との出会い
もともとは、1970年代初頭に精神科病院に勤務した際に出会ったのがアルコール依存症の人たちだったことがきっかけだ。もしあの病院が統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれた)中心の治療体制だったらどうだろう。今の私はいるだろうか。
長男出産を機にその病院を辞めることになり、その後の長いワンオペ育児や苦しい専業主婦状態の苦しみを忘れることができない。そんな私にとって、アルコール依存症というテーマなら自分にも何かできることがあるという漠然とした野望がひとつの支えだった。たぶん、依存症者との出会いがなければ、そんな大それたことを考えなかったのではないか。
つい先日ある対談で、相手の評論家から「信田さん、引きが強いですね」と言われた。そんなふうに思ったことはなかったが、今から思えばいくつもの岐路に際して必ず「少数派」のほうを選んできた。誰もやっていないこと、誰も注目していない道を選んできた。幼いころから父に「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言われてきたことも大きい。前人未踏、ブルーオーシャンと言われる道をわざわざ選んで生きてきたのだ。それは80歳になる今でも変わらない。他者からみれば、その少数派の道が「引きが強い」と思われる結果につながっているとすれば、じつに幸いだった。
アルコール依存症の治療は、令和の今でも精神科医療においてマージナルな存在である。依存症をめぐる診断名も、2023年のDSM-5-TR(アメリカ精神医学会による精神疾患の診断・統計マニュアル)に至るまで、くるくると変わり続けている。本書では、依存症とアディクションを区別せずに使っている部分もある。公認心理師は医師ではないので、厳密な疾病概念という基準から自由でいられるからだ。これがどれほどの特権かは、90年代末の『依存症』執筆時にはわからなかった。しかし病気かどうかという境界のあいまいさがついてまわる依存症は、20代だった私のブルーオーシャンへの嗅覚を刺激したのだろう。
さて、開業心理相談機関(カウンセリングセンター)を長年運営してきたが、精神科医療とはまったく異なるシステムを基盤としており、本書でも、そのことについては詳しく説明している。1995年の開設以来、依存症のひとたちが数多く来談しているが、たとえばアルコールや薬物依存症のように精神科医療に近いものを依存症と呼び、社会問題に近いもの(犯罪や非行など)をアディクションと呼ぶことにしている。それらのあいだに明確な境界はなく、あくまでもスペクトラムとして連続していることはいうまでもない。

