アディクションとは「わかってはいるけどやめられない」「行動の悪習慣」
「アディクションって何?」。この質問に対する最大公約数的答えは、「わかってはいるけどやめられない」「行動の悪習慣」だろう。いずれも批判的視点が内在している。ヘンなことをするひと、意志が弱いひと、ダメなひとという視線だ。アディクションへの蔑視や差別視はこのような起源をもつ。
この流れに転換をもたらしたのが、2010年代からの「生き延びるためのアディクション」という視点だ。
21世紀になって発展を続けるトラウマ研究の成果が、アディクションの定義にも影響を与えている。
本書でもこの点について繰り返し述べているが、飲酒に先行する体験や経験を重視することは、治療論において大きな転換を意味した。なぜなら、1990年代までは私も含めた多くの依存症治療の専門家の立場は、「飲酒の原因を問わない」としていたからだ。
アルコール依存症の回復は断酒がすべてであり、酒をやめることが回復の第一条件だった。アルコール依存症の自助グループには「第一のことを第一に」という標語がある。
このような断酒至上主義にとって、飲酒の原因追及は望ましくなかったのである。依存症者たちは放っておいても飲酒の原因を語り、その多くは悲惨な経験である。それを聞いた援助者は、「飲むしかなかったね」と共感することもあるだろう。言うまでもなく、精神科医療や心理職における「共感」の持つ価値は巨大である。彼らの語る経験を聞きながら飲酒を必然とするストーリーに共感してしまえば、彼らのスリップ(再飲酒)に対する甘さにつながってしまう。それは本末転倒ではないか、むしろどうやって断酒を継続するかのほうが大切なのだ。治療者の共感によって過去に引きずりこまれれば、恨みを募らせて再飲酒するかもしれないのだ。
このような「原因追及の危険性」という考え方は、80年代から90年代にかけて全国のアルコール依存症にかかわる治療者のあいだで共有されていった。
トラウマへの注目の嚆矢は、1980年に登場したDMS-IIIにPTSDが加えられたことだ。しかし、それと矛盾するかのようにアメリカの精神医学会は操作的診断に大きく舵を切った。従来の、症状の原因を問う因果論から、原因は何であれ現在の症状に焦点化するという姿勢への変化であった。これが症状緩和のための薬物療法を活発にする役割を果たしたことはいうまでもない。その傾向は現在にまでつながっているが、アメリカや日本における精神分析の退潮をもたらしたとも言われる。
アディクションのもうひとつの定義――生き延びること、生存戦略
アディクションには別の定義もある。耽溺・ハマるという言葉だ。
何かに浸り、溺れていく。ハマってしまい抜けられない。
溺れるという字にはサンズイが使われている。地上から逃れて水の中という異世界に浸り、溺れていく。それは、足を滑らせて水に溺れるという意味ではなく、わざわざすすんで溺れるのだ。これは生き延びるためのアディクションというとらえ方とつながっている。
耐え難く想像を絶する体験のあとに生じるPTSD(心的外傷後ストレス障害)については、すでに述べたようにDSM-IIIによって精神科医療の対象となった。本書でも詳述しているが、フラッシュバック(フラバ)や解離を体験するとそれが再度出現することへの恐怖が生まれる。二度とフラッシュバックを起こしたくない、入浴すると風呂場での父からの性虐待のフラッシュバックが起きるかもしれないので風呂に一か月以上入っていない、と語る女性は珍しくない。
彼女たちは、アルコールやクスリを摂取することで意識変容を起こしフラバを防ぐ。解離しそうになると市販薬を大量に摂取することで防ぐ。学校のいじめで苦しんでいる女子高生は、市販薬を摂取することで登校時の意識を飛ばし、教室に座ることができる。こうやって彼女たちは不登校を防ぎ、死にたい意識を軽減させながら生きる。しかしながら、市販薬のODはいっぽうで死へのリスクを高めることにもなる。
戦争から復員した男性たちが、戦場のフラッシュバックに苦しみながら酒に溺れていった姿と、新宿歌舞伎町で家族に居場所のない女子中高生が市販薬をODする姿は、どこか重なっている。
(続きは本書でお読みください)