文春オンライン

「白ブリーフ裁判官」と「新潮45」問題に共通するものとは何か

そもそも「表現」とは何なんですかね

2018/09/27

 先日、岡口基一裁判官の分限裁判が行われて記者会見がなされました。報道でも出ておりますし、これはちょっとと感じるところも大でして、取り上げてみたいと思います。

この問題は何が変なのか?

岡口判事「表現行為できぬ」分限裁判後、異例の会見 - 産経ニュース
https://www.sankei.com/affairs/news/180911/afr1809110023-n1.html

 分限裁判の仔細については、ヒューマンライツナウの弁護士・伊藤和子さんも解説記事を寄せておられますが、直接の争点となっている「岡口さんが投稿したツイートの内容を、勝訴した元の飼い主が見て高裁に抗議したため、高裁長官の林道晴さんが「当事者の感情を傷つけた」として懲戒を申し立てた」ことだけが要因ではないようです。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

ツイッターで懲戒が許されるのか? 岡口裁判官の分限裁判で報道されなかった論点とは。(伊藤和子)  Y!ニュース

https://news.yahoo.co.jp/byline/itokazuko/20180916-00097022/

 話のコンテクストを見極めず、引用ツイートをしただけで岡口さんの主張や評価を明確に分かる形でしたわけでもない表現をもって、所属する組織に怒られる、というのはちょっとびっくりです。ただ、伊藤さんの書かれているように、もともとの裁判所の考え方は「本当の理由は、岡口裁判官がツイッターをやめないこと」であるとするならば、表現の自由を守るべき司法・裁判所が、自身の組織に所属する裁判官の勤務時間外の表現活動まで制限するという判断を下すことを意味してしまうため、とても苦しいのではないかと思うわけであります。

品格の問題と表現の自由が混乱していないか?

 表現の自由を巡っては、そもそもが「価値観を相容れない表現は見苦しいもの」であるという前提があります。女性から見れば男性が好きなグラビアアイドル画像や萌え絵を不快に思うこともあるでしょうし、人は何かしらトラウマや葛藤を抱えて生きているなかで「見たくない不快な表現」に接することも多くあります。そういう中で、表現をする者、受け取る者同士が許容できる範囲や距離感を持ちながらうまく多様な言論や表現が社会で共存できるようにしているわけです。

©iStock.com

 しかしながら、例えば裁判官が筋トレ画像や白ブリーフ一枚だけを穿いた自撮りを掲載していることが問題だ、とするならば、それはあくまで裁判官という仕事の品格の問題のみにおいて問われるものであって、それが勤務時間外に行われているものだとしたら裁判官という立場を離れた個人的な表現活動の一環として行われていると解されるべきなんじゃないか、と思います。