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『新潮45』問題をめぐって思ったこと

 私のような自由にモノが書ける人間が己の力を信じて好きなことを書きボヤを起こすことと、岡口さんが表現の自由を信じ、自らの信念のもとで闊達な表現や議論を行い続けてきたこととではちょっとレベルが違います。岡口さんとは政治的な信条や立ち位置こそ違いますが、一人のネットユーザーとして、彼ほどの深みと面白みを体現した裁判官はちょっと見たことがないぐらい、偉大な人だと思います。

 ただし、そういう自由闊達な議論の体現者である岡口さんが、所属組織である高裁において、まあなかなか理解を得られず「ツイッターやめろ」って言われてしまうのは、非常に遺憾ながら起きてもおかしくないことだとは感じます。これは裁判所、高裁が狭量だという話ではなく、組織のロジックとして放し飼いもむつかしいという難渋すべき局面に陥ったからなのだろうなあとは容易に想像がつきます。別に、だからこそ開かれた司法であってほしい、裁判所は全裁判官をツイッターユーザーとするべきとまでは思いません。裁判所の側の言いたいことも、何となく分かるのです。さすがに裁判官としては勤務時間外の表現とはいえ白ブリーフはどうなんだよ、と。

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 惜しむべきは、多少言いがかりに近い分限裁判の形で岡口さんの処分をせざるを得なくなった、岡口さんも表現者として妥協できなかった、その結果として、我が国の表現の自由を巡る対立が激化してしまうのではないか、という問題です。おりしも『新潮45』で変わった感じの文芸評論家がマイノリティをDISって会社ごと炎上したりしてましたが、あれだって本来はあくまで表現の自由の範疇とも言えますし、突然『新潮45』が休刊になってしまって、これって大丈夫なんだろうかとも思うわけです。

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狭量こそ敵だ、と強く思います

 でも、表現の自由というのは言論には批判で対抗する、各々の問題については論争によって解決される、そして不快な表現でも多様性のもとで許容される、という大原則があるものだと私は思っています。もちろん児童ポルノやガセネタ記事はまずいだろうけど、むしろ戦後の民主主義においては狭量こそ敵だ、と強く思います。だからこそ、組織防衛の論理もよく理解したうえで、岡口基一さんの考えに寄り添うことが、ネット民のみならず民主主義の在り方を考えると大事なんじゃないかと思う次第です。