家族を探して

 野口家のある宝町(爆心から1.2キロ)に着いた正隆は「家宅全焼を見る」と短く書いている。親族からの情報として「正範(弟)空襲10分前、小母さんと話をしたること判明」するも、家族4人の姿も、伝言も、なにも見当たらない。先に野口家が荷物を移していた郊外の疎開先を訪ねてまわったが、家族はどこにも避難していなかった。

祖父一家と「異形の遺骨」についてはじめて長男・春光さん(左)に説明する野口さん(著者撮影)

 救護所を覗けば、生と死のせめぎ合いが続いていた。目鼻口の区別もつかぬ大やけどの負傷者が続々と息を引き取っていく。なぜか皮膚が爛れた者が多く、真夏の熱気も相まって臭気は凄まじい。救援に当たっていた陸軍が終戦で撤退して医薬品は尽き、ガソリンも不足、夜ごと積みあがる遺体の焼却も間に合わない。昨日まで元気に看病をしていた者が、体中に斑点が出て吐血し、悶え死んでいく。「新型爆弾の毒ガス」と市民は恐れた。大量の放射線が人々の細胞までも破壊していることをまだ誰も知らない。

 正隆ら行方不明者を探す者たちは、絶望的な作業を繰り返すしかなかった。各地の救護所に貼り出された死亡者名簿や伝言板に家族の名前を探し、無造作に積まれた遺体のひとつひとつを現認してまわる。真夏の遺体は腐敗が早く、顔で見分けることは難しい。血まみれの衣服や持ち物までも素手で探らねばならなかった。

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 葉書によれば正隆は19日になって、実家の焼け跡を掘っている。いよいよ覚悟を決めたようだ。しかし、身長150センチに満たぬ虚弱な正隆に、炎天下の力仕事は荷が重かったのだろう、何も掘り出すことは叶わなかった。

 広島に入って3日目の8月20日以降、正隆と結婚の話がまとまっていた東広島市・白市(しらいち)の伊原家が、野口家の捜索に加勢する。正隆は生涯、広島での体験を語らなかったが、ここからのことは伊原家に複数の証言が残る。

今回、再び骨壺を開けると、もうひとつ新たな事実が明らかになった(著者撮影)

 きょうも焼け跡を掘るという正隆に、伊原家から腕っぷしの強い小作人の男性が付き添った。宝町の焼け跡に着くや、心当たりを片っ端から掘っていった。

 最初に見つかったのは、長女の明子(22歳)。茶の間のあたりから骨が出てきた。一緒に掘り出された眼鏡で、明子と分かった。眼鏡は無残にも半分に引きちぎられ、頭蓋骨と思しき骨片に溶けて引っ付いていた。弟への葉書より。「(明子は)食事中なりし模様。証拠物件。メガネ、モンペの黒衣、フック、ウエースの貝ボタン。母の骨も掘るべく努力せむ」。

 翌日、母フジ(56歳)らしき骨が、台所付近から出てきた。さらに弟の正範(28歳)と思われる骨は玄関あたりで見つかった。正範は、8月7日に結婚式を挙げる予定だった。被爆10分前の電話の内容から、婚約者の待つ川本家に向かって家を出ようとしていたものと思われた。

 3人の骨は、人間の骨格を留めていなかった。粉々に砕けた白い骨片が、高温で溶けた瓦礫やガラスの塊に引っついたり混ざり込んだりしている。正隆は遺骨まわりの瓦礫までも大切に拾い集め、用意した箱に納めていった。

 しかし、父の骨だけが見当たらない。

※本記事の全文(約12000字)は、月刊「文藝春秋」9月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(堀川惠子「『異形の原爆遺骨』八・六が奪ったもの 後編」)。 全文では、下記の内容をお読みいただけます。
・たったひとりの生存者
・傷ついた者たちの戦後
・氷解した父との確執

文藝春秋

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「異形の原爆遺骨」八・六が奪ったもの 後編
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