5年生存率は40%と告知、闘病生活がスタート
――その後、ご主人とどのような言葉を交わしながら、一緒に病気と向き合っていったのでしょうか。
misono ちょうどその頃、自分はエイベックスを円満退社した後で、Nosukeもドラムのお仕事が入っていたのでお互い多忙で大変な時期でした。
しかも最初「もしかしたら悪性リンパ腫かもしれない」と、病院に付き添ったお母さんから聞いて。手術をする場合「将来のために精子を凍結する人がいらっしゃいますが、どうされますか」と言われたので、産婦人科へ移動すると先生が、「悪性リンパ腫じゃなくて、精巣がんじゃないですか」と気付いてくださったんです。
そしてまた病院に戻ったら「精巣がんのステージ3で、5年生存率が40%です」と診断されました。
――本当に、さまざまな出来事が立て続けに重なったタイミングだったんですね……。
misono はい。当時は昼から夕方まで打ち合わせを入れまくって、一日に何件もはしごしていて。ライブハウスやショッピングモールだけじゃなくて、暑い日や寒い日に野外のステージで歌ったり、深夜からクラブで歌唱する日もあったりして、心身共にしんどかったです。
しかもマネージャーさんをつけていなかったので、泣いている時間はなくて。会議中に涙が流れていた日もありましたが「Nosukeの方が辛いんだから、落ち込んでいる場合じゃない」と言い聞かせて深く考え込まないようにしていました。だけど、正直キツかったです。
でも、いつ何処で誰と何をしていても頭の中にNosukeが出てくるので、とにかく失いたくなくて、「今の自分にできる物事をできる限り全力でやりたい」と思って。家族やお世話になっている人にも甘えたくなかったし、「周りの人には頼らずmisonoがNosukeの為に治療費を稼ぐ」という選択肢だけしか頭になかったです。
大手事務所を辞めたばかりだったのに、干されることもなく、お仕事はいっぱいあったので有り難かったですし。「フリーになったのにギャラが高い」となってお仕事が激減するくらいなら、「いくらであっても何でもやります」っていう気持ちで、金額が低くても断らずに何でもかんでも引き受けてしまっていました。激安でやっていたのにも関わらず、ギャラの未払いがあったりしたので辛かったです。
ただ、Nosukeは身内にすら「病気の話をしたくない。もしするなら完治してからがいい」となっていたので、常にいつものmisonoでいるように心掛けて、明るく元気に振る舞っていました。
――そのような状況の中でも、お仕事を続けようと決められたんですね。
misono Nosukeからは「俺が死ぬかもしれないのに働くんだ?」と言われたり、お世話になっている人からも「Nosukeくんが一緒にいて欲しいってなっているんだから、Nosukeくんのそばにいてあげたほうがいいんじゃない?」って提案をされたりしました。
でもmisonoが休んで病室にずっといたとしたら、治療費を誰かに借りなきゃいけなくなるじゃないですか。自分的には家族にもお金の話をしたくなかったので、こういう価値観の違いで入院する前から夫婦喧嘩がたえなかったです。二人揃って貯金をするタイプじゃないし、Nosukeはがん保険にも入っていなかったのでお金がいっぱい必要で。
しかもお姉ちゃんを含めて芸能人の方がたくさんお見舞いに来てくださっていたから、個室を選んだんです。だから、より一層お金がかかるので、病院から現場へ行って終わったらすぐ病院に戻る日々でした。
――当時は、ご自身の気持ちを保つだけでも大変だったのではないでしょうか。
misono 病気になった本人は治療に専念すればいいけど、看病をする方だって弱音を吐けなかったりして精神的にも追い込まれます。
先生からは、「がんは治っても、その後うつになってしまう方もいます」とも聞いていました。Nosukeが退院した後、ドラムのお仕事がなければNosukeは復帰できない訳です。きっかけが病気だったとしてもNosukeが人気者になって顔と名前が有名になればドラムのお仕事にもつながると前向きに捉えていました。
それに、おかげさまで当時、misonoにお問い合わせが殺到していたので、治療費に全額あてられて本当に良かったです。
