母を薬物から切り離すために、薬の仕入れをストップ

――赤城高原から帰宅したあと、お母さんはどのような反応だったのですか。

おおたわ 私たちが数日間姿をくらましていたことで、母も、私たちが本気で依存症に向き合うと決断したことを察知したのだと思います。

 私たちがいなくなっていたことに一切触れることなく、淡々と食事をして、こんこんと眠り続ける生活を送っていました。おそらく私たちの切羽詰まった様子を察して、むやみに突っつくとすべてを失ってしまうような恐怖を感じていたのだと思います。

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 私と父はまず、母に対して言葉と行動を一致させることを決めました。「薬はやめなさい」といいながら注射薬を与えるようなちぐはぐな言動をやめて、薬の仕入れをストップすることにしたのです。

 

――お母さんが薬を欲しがって暴れたりすることはなかったのでしょうか。

おおたわ 私が母の前に現れると「死ね」と言われてしまうので、母には父から「もううちでは注射が手に入らないんだ」と伝えたのですが、母は思いのほか冷静に「ふうん、そう」と一言だけ発して、しばらく自室にこもって眠り続けていたそうです。その後、本当に一度も薬を渡すことはなかったのですが、母も二度と「薬がほしい」と言わなくなりました。

 私と父との間には入院生活以降、同志のような仲間意識が芽生えていました。もともと仲が良かった方だと思いますが、母を薬物から切り離すという共通の悩みと目的を持ち、密に連絡を取り合うようになったのです。

薬を諦めた母は、買い物依存になっていった

――お母さんは薬物への依存をすぐに断ち切れたのでしょうか。

おおたわ やたらと外出の頻度が増え、薬局やクリニックに行くようになりました。どうやら、オピオイドの代替品になるものを必死で探し回っていたようです。鎮痛剤や睡眠薬を片っ端から買ったり、薬を求めて知らない整形外科を渡り歩いたと見られる診察券がたくさん溜まったりしていました。

 満足のいく薬はないので諦めたようですが、その代わりに今度は買い物依存になっていったのです。

 

――お母さんの買い物依存はどのような状況だったのでしょう。

おおたわ テレビショッピングを見ながら片手に電話、片手にリモコンを持って、家電、食料品、化粧品、掃除用具など、1日中何かを注文しているような状況でした。だんだん何を買ったか分からなくなって、未開封の段ボールで部屋が埋め尽くされるようになっていったのです。

 そんななか、病気で2年ほど闘病していた父が亡くなりました。父は赤城高原での入院からほどなくして持病で倒れ、闘病ののち、私が37歳の年に亡くなったのです。