今の日本社会に一番足りないものは「成熟した大人」だという思想家にして武道家の内田樹さん。新刊『街場の成熟論』文庫版には、臨床心理士の東畑開人さんとの<成熟>をめぐる対談が新たに収録されています。
『カウンセリングとは何か』で新書大賞2026を受賞、新刊の『ミドル・エイジ・ビギンズ』も話題の東畑さんと、現代人に特有な「コントロール過剰の病」について語っていただきました。
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道場に入門して急激にうまくなるのは、学校体育が1や2だった人たち
内田 入門して急激にうまくなるのは、不思議なもので、学校体育で1や2という成績を取ってきた子たちなんですよ。自分は運動能力が低いと思ってきて、自分の体を「出来の悪い体」とずっと思わされてきた子たちが、それでも体を動かしたくて、ある日、やむにやまれず道場に入ってくる。武道は体の奥に埋蔵されている身体資源を引き出すメソッドですから、素直に言われた通りにやっていると、自分でも「そんなことができるはずがない」と思っていたことができるようになる。
小さな女の子が大きな男に技をかけて、相手が空中を飛んでいくのを見ると、やはり自分の体に対して敬意を持てるようになる。自分の体が蔵している潜在可能性に好奇心を抱くようになる。それは「自我が強化された」ということではないと思うんです。むしろ自分の中に自分の知らない自分がいるという、東畑さんの言い方を借りれば「フルレンジ」に類する経験なんだと思う。
「道具的に体を使ってはいけない」ということもよく言います。体を道具的に使うというのは、中枢である脳の指令に従って末端の運動筋を動かすという考え方のことなんですけれど、そうじゃなくて、指示抜きでも身体部位が自然に自在に動くようになることを僕らはめざしているわけです。でも、なかなかその感覚がわからない人がいる。身体に権限委譲することに心理的抵抗を感じるみたいです。
東畑 身体に委ねられないってことですよね。
内田 中枢が支配管理し、末端はトップダウンでそれに従う。そうやって組織人として生きてきた人は、どうしても自分の体までトップダウンで使おうとします。でも、脳が介入すると動きは遅くなり、単純になり、弱くなる。脳は邪魔なんです。脳がうるさいと心身が濁る。「濁りを去れ」と言うと、わかる人はわかるし、わからない人はわからない。「自我を去るぞ」と力んで、むしろ「自我を去ろうと努力しているオレ」を強化してしまう。
東畑 そういう人には、精神分析がいいと思いますよ。合気道じゃなくて、カウンセリングに行ったらいいんじゃないかと思いますね(笑)。
心理療法に来るのは、コントロールが強すぎる人たちなんです。自分を高性能にコントロールしまくっている人たち。無意識というのは、要はコントロールできない自分なんです。それをどうやって表に出していくか、というのが心理療法なので。何年経っても、合気道を習得できない中枢神経中心主義者は、最大のユーザーですね。
「勝ちパターン」に居着いてしまうほうが危険
内田 コントロール過剰なんですよ。
東畑 コントロールの病。近代の副作用を扱うシステムが精神分析ですね。
内田 今の日本で人口の7人に1人とか8人に1人が心に傷を負っているっていうのは、これはもう個人の問題じゃなくて、システムの問題だと思います。学校教育だって「自我の強化」が目的でしょう。アイデンティティとか「自分らしさ」とかオリジナリティとか「自分探しの旅」とか、すべて自我を強化する方向に向かっている。それに加えて、子どもたちを競争させて、相対的優劣をうるさく言い立てて、スコアの高い人間に報奨を与え、スコアの低い人間には屈辱感を与える。そういうことをずっとやっているじゃないですか。
武道は「蓋し兵法者は勝負を争わず」、相対的な優劣を競ってはならないというところから始まる。武道の目的は「居着きを去って自在を得る」ことです。「居着き」というのは、本来は足の裏が地面に張り付いて身動きできなくなる状況のことですけれども、同じ定型を繰り返すのも居着きです。勝負を争ってはならないというのは別に精神論じゃないんです。負けると負けに居着き、勝つと勝ちに居着くから、そう教えているんです。負けに居着くというのはわかりますよね。自己肯定感が下がり、自信を失い、穴ぼこから出られなくなる。
でも「勝ちに居着く」っていうのもあるんです。こっちのほうがむしろ危険です。勝ちに居着いた人間は、それが成功体験になってしまうのでそれから後、同じ「勝ちパターン」を繰り返すことになる。悲劇的な場合には、子どもの頃に一度経験した「勝ちパターン」を生涯繰り返すことになる。勝ったせいで人間的成長が止まってしまう。今の日本社会を見て、幼稚な人が多いなと感じますけれど、それはたいてい「勝ちに居着いた人たち」なんです。「勝ち組」と言われる人たちは、見ればわかりますが、定型をひたすら繰り返している。


