太平洋戦争下、日米の激戦地となったフィリピン諸島。当時、陸軍の歩兵だった鹿児島県姶良市の坂上多計二さんは、南の島のジャングル地帯で体験した“生き地獄”を回顧する。
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私は父の仕事の関係で台湾に生まれ育ち、18歳の時、三井農林の台北支店に就職しました。昭和18(1943)年11月、日本人と台湾人総勢120人でニューギニアに向かったんですが、戦況の悪化により、マニラで船を降ろされ、海軍軍需部に徴用されたんです。
昭和19(1944)年2月からミンダナオ島ダバオ市の海軍直営農場へ。軍に供給する野菜の営農指導をしていました。その年の10月、現地徴兵があって、陸軍独立歩兵第165大隊に入隊。でも、教えられたのは、爆雷に似せた箱を背負って物陰から戦車に突撃する、消耗品扱いのような訓練ばかり。1週間で陸軍兵籍のまま、海軍の農場へ戻ることになりました。
米軍がミンダナオ島に上陸したのは1945年5月のことだ。農場も攻撃を受け、坂上さんは台湾人の隊員ら約30名を率いて密林の奥地へと逃げ込む。
逃避の際、隊員にそれぞれ1俵の米と塩を入れた瓶を持たせましたが、重いし足場も悪く、最後まで持って移動した者はわずか。当初は交代で、敵の目をかすめながら平地まで食べ物の調達に下りたけど、だんだん隊員たちの体力も消耗して長続きしなかった。
雑木で作った小屋を拠点にうろつき、食べられるものは何でも食料にした。主食は「山春菊」と名付けた雑草やイモのツル。トカゲやヘビ、小銃で撃ち落とした鳥や猿も食べました。
眼と口元にウジがわいて…
過酷な自活を続けるうちに、栄養失調で動けなくなり、命を落とす者も出てきました。ガリガリに痩せ細った状態なら、まだ生きていられる。そのうち全身が水膨れしてきて、押した皮膚から水分が滲み出るようになったら、もう絶命は避けられませんでした。
ジャングルには他の日本兵もたくさん逃げ込んでいた。月日が経ち、食料探しに出ると、プーンと死臭が鼻を突くようになって。時折出くわしたのが、木の根元に寄りかかって微笑んでいる兵。近づくとすでに事切れている。眼と口元にウジがわいていて、それが蠢くと、薄目を開けてニコッと白い歯を見せているような容貌になるんです。



