選手としてだけでなく、監督としても阪神タイガースを日本一に導いた名監督・岡田彰布。これまで何人もの強打者を見てきた中で、彼が認める「4番」とは、いったい誰なのか。デイリースポーツで長らく「岡田番」を務めた西岡誠氏による新著『7657日の孤独 岡田彰布は阪神タイガースに何を遺したのか』から抜粋してお届けする。

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 岡田は幼少期から、チーム内外の視線を浴び続ける4番を肌身で感じていた。大阪城の南に位置する大阪市玉造で生まれ、阪神の大ファンだった父から大きな影響を受けて育った。

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 紙の加工会社を営んでいた父は阪神のタニマチ的な存在でもあった。通算222勝の村山実と知り合うと、それをきっかけに1962年の2リーグ分立後の初優勝時に4番として貢献した藤本勝巳ら、多くの阪神選手たちと交流を持った。そんな父に連れられて、幼き日の岡田は甲子園に何度も通った。

「記憶にあるのはアレよ、(招待席の)家族席3塁側の一番前やったわ。サードベースの横辺りな。腕に腕章を巻いて入ったのは覚えてるわ」

 スタンドでは阪神ファンの熱量を肌で感じながら、巨人の長嶋茂雄に大人に混じってヤジを飛ばした。周囲の大歓声、溜息や愛するが故の怒声を間近に聞きながら、選手のプレーに一喜一憂する興奮を味わった。

 自身も現役時代に通算316試合で4番に座っている。オンもオフもなく、常に視線が注がれ、注目を集め続ける日々を経験した。試合で活躍すれば神様のように祭り上げられ、打てずにチームが敗れれば、ファンやメディアから一斉に槍玉に上げられる終わりのない重圧にさらされ続けた。

 その4番のプレッシャーとはどれほどのものだったのか――。ある時、岡田にそんな質問をしたことがある。すると私の問いかけに、短く一言だけ返した。

「……そんな簡単なもんじゃないからな」

 その言葉に、すべてが込められているように感じた。