地中に埋められ、蓋をされた川を「暗渠(あんきょ)」と呼ぶ。「かつてここに川があった」という歴史を楽しめる暗渠めぐりの中でも、京都の暗渠は他の都市とはその歴史の深さがまるで違う。

 応仁の乱の最前線となった小川、平安京の舟運を担った堀川……水と共に生きてきた都の記憶を、書籍『47都道府県・暗渠百科』(丸善出版)より紹介する。(全4本の4本目)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

小川(京都市)─“この前の戦争”の舞台となった暗渠─

 小川は、小川頭と呼ばれる紫明通と堀川通が交差するあたりから、後花園天皇火葬塚・扇町児童公園をかすめ、小川通や民家の裏を抜けつつ南下、一条通を西に曲がって堀川へと注ぐ、約1.6km の小河川である。川の名は「小川(こかわ)」と濁らないが、通りの名前は「小川(おがわ)」通なので、地元でもこの暗渠を「小川(おがわ)」と呼ぶ人は多い。かつては北方の加茂川から来た流れであったという。

 1963(昭和38)年には埋め立て工事が始まり、現在水面は残っていない。流域はほとんどが道路や払い下げられて宅地に転用されているが、所々に川の痕跡も見ることができる。扇町児童公園の南東端・道路際のフェンス下には橋の床板らしき構造物が確認できるし、そこから少々下った本法寺の東側には、水はもうないが深く掘り込まれた水路跡が50m ほどと、そこにかけられた橋が2本残っている。

本法寺前に残る小川跡と橋跡

 近所の人の証言では、埋められる直前まで小川には30cmほど、あるいは子どもの腰くらいの深さで水が流れていたという。その頃にはすでに捨てられたゴミがあちこちで山のように溜まり、衛生的にも問題を抱えていたそうだが、「昔は蛍が見られるほどきれいだったと聞いてはいるが」という声も聞けた。確かに小川の沿岸には表千家・裏千家・武者の小路家といった茶道の家元が軒を連ねており、伏流水を含めて良質な水に恵まれた土地だったのではないかとは容易に推測ができる。

 わずかに下った百々橋にあるのは、応仁の乱(1467~77年)での戦場として名高い百々橋の痕跡だ。ただし橋そのものではなく百々橋の橋脚を支えた楚石の一つが残されているだけで、ここから橋の大きさは想像しづらいが、資料によれば幅4m×長さ8mという大変立派な橋であったとのこと。よく「京都でこの前の戦争といえば応仁の乱を指す」と冗談交じりに語られることがあるが、ここで話を聞いた古老は「この前の戦争ではこの小川を境に、西軍と東軍が10年以上もせめぎ合っていたのだ」と至極真面目な口調で教えてくれた。

 ここから下流の川筋は民家を縫って進むことになるが、その先、報恩寺の西門で左右まるまる一対残っている親柱と欄干に出会うことができる。親柱に設えられた擬宝珠に刻まれた「慶長七年」(1602年)の文字が、小川の長い歴史を物語っている。