不動産営業、IBMで事務、モデル…兄が心配して会いに来てくれた
——カラオケ店で働いていたところから、一気に芸能界へ?
中島 カラオケ店は途中でやめて、不動産の営業をやったりIBMで事務をやったり、いろいろな仕事を経験しました。オスカーに声をかけられた頃はIBMで働いていたのですが、仕事終わりに事務所へ行って古賀社長(現会長)にお会いしたら、「そんなダサい格好はやめなさい。モデルはファッショナブルじゃなきゃダメだ」なんて怒られたこともありましたね。
——駆け落ちをはじめ、かなり濃密な時期ですが、その間ご両親とは連絡を取っていたのですか?
中島 ほとんど取っていなかったです。当時は父の選挙の時期でもあって、私が好き勝手に飛び回っていたので、本当に申し訳ないことをしたなと反省しています。荷物を取りに実家へ戻った時に一度だけ父に殴られたこともあったのですが、それなのにまたすぐ飛び出して行ってしまって……。自分が悪いのは分かっていたんですけどね。
5歳上の上の兄がよく連絡をくれて、沖縄にも心配して会いに来てくれました。
ポーズの取り方も分からず垢抜けてもいないない新人時代に「ゴクミはな……」
——最初はモデルとしてオスカーに入られたんですよね。
中島 古賀社長が「まずはモデルとして勉強しなさい」と、しばらく毎月お金をバンス(前払い)として貸してくださって。母の援助も受けながら、都心の月8万5000円のマンションに住んでオーディションに通っていました。
最初はポーズの取り方も分からないし、垢抜けてもいなくて。社長からは「中島君は顔のパーツが離れている。売れてくると顔がキュッと真ん中に寄ってくるんだよ」と言われながら、後藤久美子さんのポスターを見せられて「ゴクミはな……」なんて先輩方のありがたいお話を聞かせていただきました。
92年頃からモデル活動を始めて、レースクイーンやデパート「松屋」のポスター、雑誌の仕事などをいただけるようになって。93年に「キリン生ビール」と「東洋紡」のキャンペーンガールという大きな仕事が決まり、本格的に芸能界の階段を登り始めました。

