其の頃上陸した米軍は、僅かに生き残った我軍の数百倍に等しく、じりじりとせばめられてゆくかこみの中に、弾薬も食糧もたたれた我軍は、すでに制海権も制空権も敵に奪われて援軍の望みもなく、残された道は只一つ玉砕のみであった。
25日、一班、二班に分れ最後の突撃を敢行する事に決り、その日すでに玉砕の報を故国にむけて打電した。一班の突撃を見送った後、二班の私は定めの夕刻までに防空壕に待機していたが、来襲の敵機により発見され、爆弾と米兵の投入した爆薬により、壕内は一瞬地獄と化し、その爆煙の未だきえやらぬうちに、火焔放射器の炎がすべてを焼きつくしたのである。
破壊され、焼けただれた壕内にまだ生きている人がいたら、それは奇蹟に近い。私が生きている自分に気づいたのはどの位たってからであろうか、私のからだは何か重いものに押されて手も足も自由にはならないが生きている事はたしかであった。
やっとうすぐらい壕内を見まわすと、私の上には黒こげの死体が重なり、あたり一面、ちぎれた手足が散って、これまでの戦闘にそれを見なれた筈の私にも一瞬眼をおおいたくなる惨状であった。少し前まで、生死を共にと誓い合った15人の戦友はすでに亡く、運つよくも私は戦友の死体の蔭にあって一命を得たのである。私は顔にいくらか火傷はしていたが、五体無事の自分がどうしても信じられず、しばらくは呆然と我を忘れていた。
※カラー化した写真の色彩は史料を参考にした推定を含みます(原写真の人物・構図は変更していません)。
※記事中には、今日からすると差別的表現ないしは差別的表現と受け取られかねない箇所がありますが、その時代の表現としてある程度許容せざるを得ないものがあります。読者の皆様が注意深い態度でお読みくださるようお願いする次第です。
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