名古屋港線の跡を挟んでららぽーとの西側に広がる東邦ガスの跡地も、公園などへの再整備が進んでいるようだ。すぐ南で名古屋港線は港北運河を渡る。その橋も、もちろんそっくり現役当時のままの姿だ。
港北運河は名古屋港線の橋のすぐ東側から埋め立てられていて、港に向かうメインストリート・市道江川線と運河が交わる橋の下にも水はない。それでも橋の形は残り、高欄や親柱などが古めかしい威容を見せていた。
すぐ脇にららぽーと、反対側には港区役所や港北公園。西には名古屋港線の廃線跡があり、地下には地下鉄名港線が通っている一角。その真ん中で、埋め立てられた運河を渡るこの橋は、「平和橋」という。1937年に開催された名古屋汎太平洋平和博覧会にちなんで名付けられたものだ。
90年前に「1日9万人弱を運んだ」
当時の名古屋は、黄金時代を迎えていた。人口は100万人を突破し、現在地に移転・開業した名古屋駅は“東洋一のターミナル”と謳われた。現在まで名古屋中心部のメインストリートを担う桜通が開通したのもこの時期だ。
名古屋汎太平洋平和博覧会は、そんな名古屋の戦前黄金時代の象徴として行われたビッグイベントだったのである。まだ開発が進んでいなかったららぽーと周辺の一帯を会場に、海外からも30カ国近くを招いた日本で初めての“国際博覧会”。1940年に予定されていた紀元2600年記念万博が中止になったので、この名古屋の博覧会が外国を招待した戦前唯一の博覧会として刻まれている。
平和博覧会の来場者は、2カ月半ほどの会期で約480万人。2500万人以上が来場した昨年の万博とは比較にならない。が、会期の長さが半分以下ということ、何より90年前という時代を考えれば引けを取らない賑わいといっていいだろう。
そして、この来場者輸送に名古屋港線が一役買っている。会期中、名古屋博覧会前駅という臨時の駅を開設したのだ。1日あたりの乗降人員は実に8万7522人に及んだという。
平和橋を通る市電も博覧会にあわせて開通しており、名古屋港線だけがお客を運んだワケではない。もちろん、昨年の万博の夢洲駅(1日20万人以上)には遠く及ばない。それでも90年前の名古屋港線、八面六臂の大活躍だったのである。
いまではもう博覧会の痕跡はほとんど残っていない。臨時駅は跡形もなく、残っているのは平和橋ただひとつ。平和への願いも虚しく博覧会が終わって2カ月後には日中戦争が勃発している。
「最後はJRのレールは運んでいた」
名古屋港線の廃線跡は、博覧会など何もなかったかのように南に続いてゆく。周辺は商業施設にオフィスビル、また住宅地。2024年に廃止された名古屋港線の終点は、名四国道の高架を潜った先の、名古屋港駅だ。残っているレールも、ちょうどそのあたりで途切れている。





