父親と「名字の漢字が違う」理由は…
大川原要は1922(大正11)年4月15日、父・大河原健智の次男として横浜に生まれた。父は1882(明治15)年、福島県飯豊村で生まれ、青年期にアメリカに密航、カリフォルニアの農園で働いて実家に仕送りをしていたという人で、30歳を過ぎて帰国。愛国生命という保険会社に勤め、結婚して横浜に住み着いた。父は大河原、息子は大川原、名字の漢字が違うのは、役場の戸籍係が書き間違えたせいだという。
要が横浜小学校3年のとき、父が韓国の京城(現・ソウル)支店長となり、要も京城で子供時代を過ごす。京城公立中学校5年のとき「短剣を吊った海軍士官の軍服に憧れて」海軍兵学校を受験するが不合格、早稲田大学第二高等学院を経て早稲田大学商学部に進学した。海軍兵学校への憧れは、早稲田で「都の西北」を歌ったらすっかり忘れてしまったと、大川原は私に語っている。東京での学生生活を謳歌したのだ。
王子のアパートに住み、ギターを買い、スケート部に入ってスピードスケート5000メートル、10000メートルの選手になった。1941(昭和16)年には父が京城から帰国し、豊島区の東長崎に暮らすようになった。
「12月8日、真珠湾攻撃、米英に宣戦布告のニュースを聞いたとき、若い頃アメリカで暮らした父が、『なぜ日本はアメリカの大きさがわからないんだろう。この戦争は絶対負ける』と苦い顔をし、『お父さん、そんなこと言ったら国賊って言われるよ』と母にたしなめられていました」と、大川原は言う。
「1943(昭和18)年、海軍飛行予備学生の募集があり、多くの学生が志願して十三期飛行専修予備学生として土浦と三重の航空隊に入隊していきましたが、私は卒業だけはしたいと思い、志願しなかった。ところがすぐに、文科系学生への徴兵猶予が廃止され、10月、本籍地の福島県まで徴兵検査を受けに行ったんです。大学と決別するのはつらかったですね」



