Nさんは、驚きと不安の感情を覚えた。いままで努力をしてきて、親としても物心両面から支援してきたのだから、それを無駄にしてしまう危険性に困惑するのは当然なことだ。ここで自分のネガティブな思いに気づき、まず自分の心の動きを正確に把握することが大切である。

 Nさんは自分の困惑を自覚したが、いまはともかくアクティブ・リスニングに切り替えなければと思った。

「塾をやめたいと思っているんだね」

ADVERTISEMENT

 Nさんは、昂ぶってくる自分の感情を抑えながら、つとめて冷静にたずねた。

「うん、勉強が難しくなってきて、塾から帰ってきてからも勉強しなきゃ追いつかないんだ」

「塾の勉強に追いついていけないような気がするんだね」

「追いつけないっていうより、勉強に時間がかかるからね」

「塾の勉強が多くて、困っているんだね」

「うん。賢太郎君みたいに、何でもぱっぱっとやれればいいんだけどね」

「要領よくやれないので、弱気になっているのかな」

「うん。だいたい、僕は受験なんか向いていないと思うよ。何かを覚えるのに時間がかかるし……」

「ものを覚えるのに時間がかかるから、受験向きじゃない……」

「まあ、他の子よりは向いていると思うけど、優秀な子と比べると、時間がかかるんだ」

「よくできる子と比べると、不安になっちゃうんだね」

「うん、でもがんばれば、賢太郎君たちよりいい成績がとれるんだけど……。算数や国語は、あまり勉強しなくてもできるんだ」

「正志にとって、算数と国語は得意科目だから、問題ない?」

「うん。問題は社会と理科だね。覚えることが多いから」

「社会と理科は、覚えることが多いから、しんどいんだね」

「そう。でも、覚えるだけでいいんだけどね。難しいとかいうわけじゃないから」

「社会や理科も難しくはないんだ」

「みな国語や算数で苦労しているからね。それと比べれば、楽なんだと思うよ。塾の先生が言ってたけど、最後は国語と算数の実力がものをいうって」

「受験では、国語と算数が大切なんだね」

「そうみたい。だから受験に向いていないわけじゃないのかな? 社会や理科にあまり時間をかけなければ、家でそんなにたくさん勉強しなくてもいいし」

「社会や理科の勉強を上手にすれば、しんどくはないかもしれないんだね」

「うん。塾をやめたり、受験をあきらめたりするほどのことはないかもね。疲れない程度にやればいいんだ」

「時間配分をバランスよく勉強すれば、つづけられそうだと思っているんだね」

「うん。大丈夫だと思う」

 Nさんは、途中で結論を急ぎたい、まるく納めたい衝動に駆られながら、それを抑えて、正志君とのあまり慣れていないアクティブ・リスニングに最後までつき合った。そして正志君は、自分なりの意欲を回復した。

 もちろん、誰もがこううまくいくとはかぎらない。しかし、もし最初に「いったい何のためにこれまでがんばってきたんだ」とか「大丈夫だよ。がんばれば何とかなるよ」といった言葉で会話を始めれば、疲れを感じている正志君は、確実に「塾をやめたい」という思いを強くし、Nさんに反発しか感じなかっただろう。

 一方、もしアクティブ・リスニングの末に、塾をやめるという結論に達したとしても、それは自分の結論だから、その責任を正志君はとろうとするだろう。そこには必ず成長がある。

あなたの花は明日咲く (文春新書)

鈴木 秀子

文藝春秋

2026年9月17日 発売

最初から記事を読む 突然死した同僚の“苦悩”に気づけなかった…優秀な企業人が抱いていた「聞き手になる怖さ」