高市早苗政権の外交的振る舞いからは、日本は事実上、ドイツと同じ方向に進んでいる印象をしばしば受ける。米国に追従すること、言い換えれば、ドイツのように、崩壊過程にある「アメリカ帝国」を維持するための“悪あがき”でしかない戦いにおいて、積極的に“手先”になること――それは、アジアにおいては、ロシアではなく中国を優先的に挑発することだ。これがまさに高市首相が試みていることのように思われる。「アジアの平和」という真の国益に反して、通常兵器の軍備は増強するが、結局は“主人”〔米国〕に奉仕することにしかならない日本の対外政策を私はすでに「空想的な偽のナショナリズム」と称したことがある。日本が「主権」と「平和」を同時に回復する唯一の方法は核保有である、と私は主張し続けるつもりだ。〔中立と平和を同時に実現した〕江戸時代の日本の姿こそ、日本の本来の気質に合っている。
(略)
私はドイツと日本の違いのすべてを理解し、説明できるわけではない。しかし、日独の違いゆえに、歴史的に――しかも今日でも確認できるように――常に「悪い選択」をしてきたドイツとは反対に、日本は「良い選択」、つまり「平和」の選択をするだろうと考えている――単にそう期待している、という以上に歴史家としてそう予測している。
歴史家としての私のこの直感は、2つの要素にもとづいている。
第1の要素は、日本はドイツと違って、「大国への道」を明白に諦めていることだ。西独時代から半世紀にわたって、経済力を維持するために大量の移民を受け入れたドイツの政策を日本は拒否していることが、その証左である。この日本の姿勢は完全に合理的とは言えないが、日本が「国力の衰退」を受け入れていることは明らかで、「戦争への強い欲望」は生まれようがない。
第2の要素は――一見、些末に見えるが、私にとっては第1の要素と同様に重要である――、日本人の方がドイツ人よりもユーモアセンスがあること、さらに言えば、「とても人間味のあるユーモアセンス」があることだ。このユーモアセンスは、ドイツではおそらく宗教の歴史、文化の歴史によって完全に破壊されてしまった。宗教として厳格すぎるルター主義は、この太古のホモ・サピエンス以来の「人類の自然な能力」を根絶するのにあまりに成功してしまったのだ。多くの戦争の原因となった「過剰な生真面目さ」がドイツを支配している。しかし、日本はまったくそうではない。
ユーモアは、1つの兆候にすぎない。私がここで想起したいのは、芸術、文学、料理などによって世界の普遍的文化の一角を占める日本において、「この世の美しさと喜び」に幸せを感じる「自然人らしさ」が依然として生き続けていることである。この点は、ドイツ――偉大な哲学者、物理学者、数学者を誇るが、硬直的で人間味に欠け、あまりに暗いドイツ――とは、何ら共通するものがない。
「自然人」はドイツでは死滅した。それゆえにこの国はナチズムを生みだしたのだ。日本には「自然な人間」「人間らしい人間」が今も活き活きと存在している。だからこそ、日本人は戦争を拒否できると私は信じる。