「全員の無念を決して無駄にしない」

 そして、同年5月29日、松永は飯塚本人と面会した。事故から1868日目のことだった。義父とともに東京都昭島市の東日本成人矯正医療センターを訪問。車椅子に乗った飯塚はげっそりと痩せ、人相が裁判時と変わっていた。

 飯塚は質問を投げかけられても、数分間、発話することができないほど衰弱していた。「はい、いいえ」で答えられる形式の問答にすると、少しずつやりとりが成立するようになった。

池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)

「医師に止められていたら、運転をやめていましたか」

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「やめていました」

 松永が「再発防止の観点から、高齢者やその家族に伝えたいことはありますか」と確認すると、飯塚ははっきり答えた。

「早く免許を返すように世の中に伝えていただきたいです」

 飯塚は、松永に体調に不安はなかったかと尋ねられると、「本当は少し不安がありました」と初めて明かした。松永の義父で真菜さんの父である上原義教が「刑務所を出たら、家族と安らかに過ごしてください」と言うと、飯塚は「ありがとうございました」と涙声で発した。それが約40分間の面会の最後の言葉だった。

 2024年10月26日、飯塚は93歳で呼吸不全により亡くなった。

 事故当時、飯塚の体は運転できる状態だったのか。

 飯塚の収監後、長男は実家のパソコンで「転倒の記録」というファイルを見つけた。事故前の2年間で飯塚が記録した転倒の回数は13回。池袋駅で階段を踏み外したときは顎を強打して救急車で搬送され、口の中を切って5針縫った。

 この記録を見た長男は「言ってくれよ」と思わず呟いた。こんなに転んでいたと知っていたら、運転をやめさせていたという。