「今回で選考委員を辞めることにしました」

 2019年7月、築地の料亭「新喜楽」。直木賞の選考会が終わると、稀代のミステリー作家は突如立ち上がり、そう告げた。数多のベストセラーを生み出し、脂が乗り切っていた時期。他の選考委員が訝しんでいると、その理由をこう語った。

「とにかく時間が足りなくて、他の人の本を読んでいる余裕はありません。僕は、自分の作品を書かなきゃいけないんです」――。

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60万部を超えるベストセラーとなっている『永遠の記憶

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累計発行部数は1億6000万部…抑えきれなかった創作意欲

 7月23日、東野圭吾さんが大腸がんで亡くなった。享年68。その人気は国内にとどまらず、海外版を含めた累計発行部数は1億6000万部を超える。東野さんはいかにして世界的作家に登り詰めたのか。

 1958年、大阪市生野区に生まれた。時計職人を父に持ち、幼少期は機械いじりを好んだ。中学時代までは本を全く読まなかったという。東野さんは当時をこう振り返っていた。

〈国語の成績もメチャクチャ悪くて、試験の問題の意味すらわからないこともあったぐらい(笑)〉(「週刊文春」06年2月23日号)

 高校時代に小峰元の『アルキメデスは手を汚さない』(講談社)を読んでミステリーの世界にのめり込んだが、大阪府立大工学部を経てエンジニアとして日本電装(現デンソー)に就職。しかし、創作意欲は抑えきれなかった。かつて「オール讀物」に寄せたエッセイでこう綴っている。

〈(註・エンジニアとして)過ごしながらも、1つの疑いが脳裏から離れなかった。俺の居場所は本当にここなのか〉(06年3月号)

約30年前からの飲み友達だった馳氏

馳星周氏「飲みの席では文学論は一切口にせず、馬鹿話ばかり」

 85年、『放課後』(講談社)で江戸川乱歩賞を受賞し、デビューを果たす。直木賞作家で、デビュー直後からの飲み友達でもある馳星周氏が振り返る。

「当時は結構ヒマそうで、銀座の文壇バーに行くとだいたい東野さんがいました。月に3回くらいは一緒に飲んでましたよ。クールな見た目とは裏腹に、根はコテコテの関西人。文学論は一切口にせず、馬鹿話ばかり。お笑いが大好きで、ボケとツッコミの両方やって盛り上げてくれました」