國太郎は射撃して熊太郎の右ひじを撃ち抜いた。熊太郎は倒れるようにして家の中に逃げ込んだ=「重傷」(「決定書」)。國太郎はそれを追って奥座敷に迫った。そこにいた熊太郎の妻とらも胸を2カ所撃たれて倒れた=「重傷」(『警察史』「決定書」)。これを見た熊太郎は背後から國太郎に組み付いてねじ伏せようとした。國太郎は乱射したが、熊太郎の三男が飛び込んできて暴れ狂う國太郎に組み付いた。西川・八橋署長はじめ青木巡査部長、田村巡査らが駆けつけて國太郎を逮捕したのはその時だった。
「本当に惨劇の実行犯か」
10月20日付大朝朝刊山陰版の「九人殺傷―八橋の悲劇」の連載第1回は「ドラ息子の尻拭ひに株に手を出して失敗」の見出しで、國太郎が30年間、郵便局長を務めて従七位勲七等を授けられたが、長男は遊蕩に身を持ち崩し、家運は傾き始め、挽回しようと焦った國太郎は何度か株に手を出したが、外れて一家破滅の時期を早めたと書いた。
22日付の第3回では、國太郎が弁護士を断って一審で服罪する見通しと、妻と娘が世をはばかって尼僧になるとの情報を載せている。同じ22日付因伯は、國太郎が自動車で八橋署から松江刑務所鳥取支所に護送されたと報道。
「深編笠に面を隠し、マントを着用。堂々たる紳士の風采」で、ものものしい警戒に「逃げも隠れもしなければ自殺もしない。死刑も既に覚悟しているから、鳥取で刑を受けたい。弁護士も望まない」と語っていたと伝えている。当時、事件の被疑者や裁判の被告には編笠を被せる習慣があった。
しかし、その後の経過はその通りにはならなかった。(つづく)




