今からちょうど100年前の1926(大正15)年、昭和への代替わり直前の10月。鳥取県八橋町(現琴浦町)で、退職郵便局長の中井國太郎(犯行当時66歳)が拳銃3丁を乱射し、親族ら9人を殺傷する事件が起きた。積もり積もった根深い恨みに金が絡み、感情を爆発させての犯行だった。
何が彼を凶暴な大量殺傷に走らせたのか。判決は――。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全4回の4回目)
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予審を経て、一審鳥取地裁の初公判は翌1927(昭和2)年6月29日に開かれた。それに先立つ同月7日付大阪朝日(大朝)山陰版には「準備公判で高梨弁護士から精神鑑定を申請中だったが、却下された」ことが載っている。計画が周到だったことが理由だろう。
公判で死刑を求刑した検事は「一部には狂人ではないかという説もあるが、犯行当日、あれだけ落ち着いた行動を秩序的に遂行している点からみても、狂っているとは思えない」と述べた(同年7月1日付大朝山陰版)。初公判の模様は松陽新報(松陽)が詳しいので、29日発行30日付夕刊記事の主要部分を見よう。
九人殺傷事件の國太郎法廷に立つ 兇暴な被告を見て満廷緊張 八橋慘劇の公判開廷
第1回公判は29日午前9時半から鳥取地方裁判所刑事法廷で開廷。同裁判所では傍聴者が多数殺到するのを見越して、傍聴券80枚を発行し、法廷内外を整理することになった。だが、早くも午前4時ごろから傍聴者が続々詰めかけ、同7時には傍聴券は全て交付。手に入らなかった数十人の傍聴者は法廷の外にたたずんで裁判官と被告の問答に心耳(心で聞き取る)を傾けた。
事件の際の負傷がようやく癒えた中井為次郎をはじめ約20人が、法廷内に向かって右側の傍聴席に一団となって限りない憎悪の目を光らせ、人々の注目を引いている。9時45分、多数のやじ馬に追われながら、深編笠に紋付羽織はかまの被告國太郎が静かに入廷。被告席に着き、平気なようにしきりに傍聴席を振り返っては白扇を動かした。
松陽の記事は「悪びれもせずその犯行を認む 自ら死を覺(覚)悟して」の中見出しを挟んで続く。




