今からちょうど100年前の1926(大正15)年、昭和への代替わり直前の10月。鳥取県・八橋町(現琴浦町)で、66歳の退職郵便局長、中井國太郎が拳銃3丁を乱射し、親族ら9人を殺傷する事件が起きた。積もり積もった根深い恨みに金が絡み、感情を爆発させての犯行だった。
何が彼を凶暴な大量殺傷に走らせたのか――。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全4回の3回目)
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周到だった“大量殺人計画”
当時の警察の上部機関、内務省警保局による『捜査實(実)例集』には中井國太郎が“大量殺人計画”に至るまでの経過が記されていた。それから先の準備状況も詳しい。
國太郎方には20年も前から無免許で所持していた6連発の短銃と49発の弾丸があった。これだけでは心細いので、新型の武器を手に入れようと企てた。それには銃器や火薬の譲受証が必要だ。1926年7月、國太郎は鳥取市の印判屋に行って「自分は東伯郡逢束村(現琴浦町)の松本武治という者だ」と偽名を名乗り、八橋警察署の署印の印刻を依頼。3~4日後に代金2円50銭(現在の約4100円)を支払って印判を受け取った。
また別の印判屋で「西川」という認印を作らせた。当時の八橋署長の名字だった。同年8月7日ごろ、東伯郡倉吉町(現倉吉市)の活版所で「火薬類乙號(号)許可證(証)用紙」の原稿を示し「大急ぎで印刷してくれ」と依頼。その日のうちに出来上がった用紙30枚を受け取って帰った。
8月10日ごろ、國太郎は郵便局の事務員(19)を居宅裏の醤油蔵の前に連れて行き、許可用紙に「大正十三年一月十三日」の日付で譲受人を「東伯郡赤崎町(現琴浦町)、伊藤貞順」として拳銃実包100発の譲受証を書かせた。10月4~5日ごろ、中井光蔵方へ行き、居合わせた息子に2階で許可証用紙に必要事項を記入させて拳銃譲受許可証を作成。2通の許可証に、先に偽造した八橋警察署の署印と西川署長の認印を押して偽造の許可証を完成した。
わざわざ大阪に行き、西区京町堀5丁目の銃砲店で、偽造した許可証でブローニング式ピストル1丁を買い求めた。さらに10月15日、松江市末次本町の火薬店に行き、偽造した許可証を使って拳銃の実包100発を買い受けた。これで思った通りの凶器が手に入ったので、以後、ただ殺人決行の機の熟すのを待つばかりになった。



