床に頭をすりつけて裁判長におじぎ

 広島控訴院(現在の高裁)での公判は翌1928(昭和3)年3月2日に開かれ、検察側は「被告は共同生活の和合ということを知らない」と再び死刑を求刑。判決は同月14日だった。16日付山陰はこう報じた。

 國太郎は入廷するや裁判長、陪席判事、検事らにいちいち三拝九拝した後、判決を待った。裁判長が「被告を無期懲役に処す」と血も涙もある言い渡しをすると「ありがとうございます」と床に頭をすりつけて裁判長におじぎをした。裁判長は「おまえのやり方は非常に憎むべき点もあるが、犯行に公訴事実と相違する個所もあり、寛大に無期懲役に処した。死刑になったと思って心を清く洗い変え、死者の冥福を祈れ」と説示。國太郎は、検事から死刑を求刑された際はすごい顔だったが、きょうは傍聴席に目を移すぐらい余裕を見せていた。

判決は控訴審でも変わらなかった(松陽新報)

 一審、控訴審とも死刑でなく無期判決だったのはなぜか。國太郎の親族らへの恨みに一定の根拠を認めたのかどうか……。控訴審判決が「犯行に公訴事実と相違する個所もあり」と指摘しているのは気になるが、真実は時の流れの中に消えた。

時代の変化と老いに焦り?

 それから國太郎がどうなったかについて、うかがえる資料は見当たらない。獄中で死亡したか、何らかの理由で獄外に出たのか……。事件を振り返ってみても、地域で名士の60代後半の男がなぜそこまで親族への恨みを募らせ、その結果、“キレて”しまったのか、理解しきれない部分がある。

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 犯行後、これほどの残虐事件を起こしたにしては現実感が抜け落ちた態度だった点も合わせて疑問は消えない。元来の頑固で偏狭な性格だけでなく、何か高齢者特有の精神衛生上の問題も加わっていたのではないか。いまなら精神鑑定が行われ、もう少しはっきりしたかもしれない。

 また、発生直後の20日付鳥取は、國太郎の服装を「平素木綿着であるのに、凶行の当日は覚悟のためか、絹物の袷(あわせ=裏の付いた着物)を着て」と書いている。あるいは、國太郎は親族らへの復讐を人生最後の「大仕事」として決行し、“燃え尽きて”しまったのか――。

「前の世代との切断の感覚」

 事件の背景にあったのは時代の変化だ。関東大震災から3年がたち、大正から昭和に時代が代わる時期。成田龍一『大正デモクラシー』(「シリーズ日本近現代史(4)」2007年)は「1920年代後半に新たな時代が始まったという感覚(があった)」と指摘。「心的な光景の特徴」として「前の世代との切断の感覚」を挙げている。

 一方、「名望家秩序の変貌 転形期における農村社会」は、1920~1930年代の農村社会に大きな影響を与えたのは、大正デモクラシーの潮流だったと説明する。それまでは明治政府の意向で「財産に加えて、家父長制と家格によって律せられた『いえ』の存在が『むら』の在り方に深く関わっていたところに、近代日本の農村社会の大きな特徴があった」(同論文)。その秩序は新しい「第2の名望家」や青年、大衆という「3つのデモクラシー」のために改造させられる。「男子普通選挙を通じて名望家秩序が後退し、農村社会の担い手の平準化が進行した」(同)。

 真っ先に襲われた中井光蔵は國太郎とそれぞれ姉妹を妻にした関係だが、年齢の差は30歳以上。1世代違い、旧来の名望家である國太郎に対し、「第2の名望家」や青年層に当たる。『東伯町誌』によれば、光蔵は事件から2年後の1930(昭和5)年から7か月間と1937(昭和12)年からの4年間の2度、八橋町長を務めている。やはり、時代は変わり始めていたのだろう。