英語の「全訳」や洋書の「対訳」に1万時間を費やした結果、あらゆる文章を「訳すようにしか読めなくなった」文学研究者。しかし、常にパラフレーズをともなうその読解態度は、読書というインプットをきわめて生産的な営みへと変える「最強の武器」だった!
「勉強を手に入れたい」。そう願う人の背中を後押しし、着実に階段をのぼるための心構え・道具立てを可能にしてくれるエッセイ連載、第11回目です。
※本連載は『勉強を手に入れる』と題して書籍化される予定です
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私はなぜ「対訳で読む」ことに時間を割いていたのか?
今回と次回で、本連載の根幹にある思想にかかわる問題を考えてみたいと思います。
本連載の根幹にある思想、それはイントロダクションで述べたように、同じ勉強内容でも、「なぜそれが効くのか」を理解できていればいるほど効果がおおきい、というものです。
これについて、わたしにはひとつ、自分の勉強人生をふりかえって、連載開始当初から引っ掛かっていることがありました。
それは、「対訳」という勉強法です。これは語学の用語で、たとえば英語なら、「対訳で読む」と言うと、英語と日本語訳を同時に見ながら読む、といった事態を指します。
わたしは、この「対訳で読む」という勉強に、たぶん人生の勉強時間のうちもっとも多くを割きました。学部時代から博士課程をつうじて、ずっとやっていましたので、ゆうに1万時間は対訳で読むことに時間を費やしたと思います。
1万時間という数字そのものは途方もなく思えますが、これはつまり日本語訳を頼りに英語の本を読んでいたということであり、ようは読書時間の累計です。
なぜ、これが引っ掛かっていたのか。わたしは勉強をすぐ方法論に昇華するという習性(?)をもっているわけですが、にもかかわらず、この「対訳で読む」という勉強が、どのように効果的なのか、そのことを考えたことがないし、パッと説明できないのです。しかし、これは確実に、わたしの英語力はもちろん、おそらく読書法も形成してきたに違いありません。
今回はこれを分析し、方法論に昇華するというプロセスをそのままお見せして、勉強法を方法論化して「手に入れる」ことを実践してみたいと思います。
ではいきましょう。
「訳すようにしか読めない」ことと「費用対ページ数」の極端な少なさ、遅読の意外な効用
「洋書の読書に1万時間を費やした」という事実は、本連載の読者にとって、あまり読むのが得意でないわたしとミスマッチだと感じるかもしれません。
しかし、これだけの時間を費やしながらも、やはりわたしは冊数をたくさん読んだわけではありません。その理由はシンプルで、英語が難しいタイプの本ばかり読んでいたからです。
たとえば学部・修士の頃は、以前にも言及したトマス・ピンチョンという作家を研究していたのですが、ピンチョンはアメリカ文学史のなかでも最難と言える作風で知られる作家です。1ページ読むのに何時間もかかったりする。その重厚長大な小説を、対訳で1年以上かけて1冊みたいなペースで読んでいました。というか、だいたい「文豪」みたいな作家は難解か否かにかかわらず読むのが大変です。外国人が川端康成や大江健三郎を読むことを想像してみてください。
ともあれ、この費用対効果ならぬ「費用対ページ数」の極端な低さは文学研究者にとっては当たり前のことですが、一般的な本読みはこんなふうに読まないでしょう。というわけで、ちょっとここから考えを開始してみます。
そこで思い出すことがあります。例によって、受験勉強です。
わたしは受験生時代、英語の勉強は長文問題を頭から終わりまで訳すという、いわゆる「全訳」のみをやっていました。単語帳もやったことがありません。
ちなみに、なぜこれが可能だったのかというと、わたしは英語の勉強を有名な『基礎英文法問題精講』からはじめたのですが、これを1年かけて何周もして完全にマスターしたとき、この本に載っている英単語も自動的にマスターすることになり、これが単語力のベースになったんですね。そのとき、もはや単語帳をやる必要はなくなっていたのでした。
で、そこから「全訳」のみを英語の勉強内容とした結果、どうなっていったか。当然ですが、わたしは英語を読むとき、それを訳すように読むようになりました。というか、訳すようにしか読めないのです。
「対訳で読む」という大学生時代の勉強法は、あきらかに、この「訳すように読む」という受験生時代の読解態度の延長線上にあるものです。そしてこれは、わたしが現在も本をたくさん読めないこと、読むのが遅いこと、そして重要なのは冊数ではないのだという信念、これらに繋がっているでしょう。
ただ、これだけだと「外国語を訳すように読むという読解態度から、一冊一冊をじっくり深く読む読書法を身に着けました」みたいな話になってしまいます。これでもいいのですが、もうちょっと進めてみましょう。
そこでヒントになりそうなのは、わたしが文学研究者のなかでも、対訳で読むという期間をかなり長くとったことです。
さきにこの「費用対ページ数」は研究者には普通のことだと書きましたが、わたしは英語がかなり読めるようになってからも、対訳という勉強法を採用しつづけた。つまりこれは「わからないので助けてもらう」という用途を超えたものになっていった可能性が高い。
この仮説のもと、もうすこし考えてみましょう。
