アウトプットを兼ねたインプットをせよ。「あらゆる文を自分のものにする」
この連載でもすでに述べたように、わたしは日本語で本を読みはじめたのが大学受験を決意したときでした。そして、わたしは英語の受験勉強では全訳をやっていた。ということは、わたしは語学にとどまらず、「文章を読む」という行為一般を、この「訳すように読む」という読解態度で身に着けていったのだと言えそうです。
ちなみに、ちょっとだけメタ考察を挟むと、いまわたしは自分の現状と過去の勉強スタイルから方法論を構築しようとしているわけですが、この「自分は母語もふくめ、あらゆる文章を英語を訳すように読んでいるのではないか」という中結論のようなものは、わたしの実感に合っています。この「実感に合っている」という感覚は、自分にとってきちんと機能するための勉強を手に入れるにあたって(つまり空論にならないために)非常に重要なことであり、次回はこれを失敗例から見てみたいと思っています。
さて、では「なんでも訳すように読む」というのは、具体的にはどういう読みかたなのでしょうか。それはみなさんが経験済みの、ある読みかたと同じです。すなわち、国語の現代文の傍線部説明です。
すこし文意が取りにくい箇所に線が引いてあり、「……とあるが、どういうことか。説明せよ」という、あれです。傍線部説明問題というのは、あまりにも難解で意味不明である箇所に傍線が引いてある、というわけではありません。書き手は、それでじゅうぶんに伝わると思って書いている。ただ、「ここをパラフレーズして、現状よりも理解しやすくせよ」という問題が成り立つというだけの話です。
そして外国語もまた、内容があまりにも難解だからという理由から、理解するために訳す必要があるわけではない。そして、まったく未知の外国語ではそもそも訳すという勉強はできない。ここでは、読み飛ばすように読むこともできるが、外国語ゆえ正確に理解するには訳す必要がある――というか訳すことで理解が深まったりわかっていなかった要素が判明する、という事態が問題になっています。
これらは完全に並行しています。傍線部の説明というのは、ある日本語表現をべつの日本語表現に翻訳しているわけです。そして、これがわたしの「文章を読む」という行為の根幹にある。
このことをパラフレーズしましょう。わたしは、あらゆる文章をパラフレーズしながら読んでいる。そして、そのようにしか読めない。
これは、わたしが読むのが遅い理由でもあるわけですが、同時に、わたしの生産性の根源でもあります――こう書くと、本連載の読者なら、もうピンと来るのではないでしょうか。
わたしは他人の文章を読んでいて、「あっ、このアイディアで論文が書けるな」ということを、きわめて頻繁に考えます。本を通読しないことが多かったり、あるいは重要な箇所のみを読んで済ませたりできる理由のひとつも、ここにありそうです。
わたしは少量のインプットで多量のアウトプットをつくることができる。それは一文一文から得るものが多いからで、なぜそうなのかといえば、あらゆる文をつねに自分の言葉でパラフレーズしながら自分のものにしているからです。
これをひとことで言えば、全訳・対訳で読むというわたしの勉強法がわたしに与えたのは、インプットの作業における能動性だったと言えると思います。もっとラディカルにパラフレーズしてみましょう。わたしのインプットはアウトプットを兼ねている。
これでいったん分析は完了しました。ただ、これを「ではみなさんも1万時間の対訳をどうぞ」では実践が難しいと思いますので、方法論のヒントへと変換してみましょう。
これまで、わたしは『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』などの指南書で、ゆっくり読んだり、解析するように読むという方法論を提案してきました。これは、ごく素朴に受け取れば、「精読が大事だよ」ということです。
でも、そうじゃないんです。わたしはアウトプットにそのまま役立つようなインプットの方法を構築しようとしている。そして、そのためには、多くの人が想像するように、大量に読んで博識になることが重要なのではない。本質は、あたかも書いているかのように読むこと、インプットに能動性を付与することなのです。そこで遅さは、副産物にすぎません。
まとめましょう。今回は、わたしの過去の勉強内容を分析して、ひとつの方法論として立ち上げてみました。「対訳で読む」という語学の勉強法から、読書法へと話を敷衍し、訳しながら読むとはパラフレーズしながら読むことと同様であり、その点において母語も外国語と同様に「遅く」読むことができる。その遅さは、大量に読むことが目的ならば弊害だが、生産性が目的なら、むしろ武器になる。こうして、わたしは過去の勉強を、いま新たに手に入れなおした、というわけです。
今回はそういうお話でした。
