弾き語り仲間だった岩瀬と、19の前身「少年フレンド」を結成

――大阪では、住む場所も決まっていなかったのでしょうか。

岡平 そうです。そんなとき、たまたま目にした中華屋さんにギターが飾ってあったんですよ。それで、ここなら働かせてもらえるかもと思い、「家もないんですけど、住み込みで働かせてください!」と店主に言ったら、OKしてもらえたんです。

 そこから3か月、ほかのアルバイトもしながら30万円を貯めて、大阪から、歌のタイトルにもなった小田急線の柿生というところに引っ越しました。

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 その後、ビクターの育成スクールに入って、高田さんというディレクターの方に面倒を見てもらいながら育ててもらった、という感じです。今の自分の音楽キャリアの土台は、あの頃に作ってもらったと思っています。

――後に19で活動をともにする岩瀬敬吾さんとは、どのようにして一緒に音楽をスタートするようになったのでしょうか。

岡平 最初は学生時代に4人くらいで、駅前で弾き語りをして遊んでいたんですよ。敬吾もその中にいて。どちらから誘ったというわけでもなく、自然と2人でやるようになっていった感じですね。

 敬吾とほかの2人は同じ学校で、その2人は僕のライブにお客さんとして来てくれたこともあったみたいで。2人とも演奏が上手で、お互いリスペクトし合っている感じでしたね。

――19結成前、岩瀬さんとは「少年フレンド」という名前で活動していたそうですね。

岡平 最初、僕一人でやっていたときは「学校フレンド」という名前で、そのあと実の姉と一緒にやるようになって「学校フレンズ」になって、上京後、先に向こうに行っていた敬吾と「少年フレンド」になったんです。

 その名前は僕が考えたんですけど、実はそんなに深い意味はなくて(笑)。友達同士で仲良く音楽をやる、というくらいの気持ちだったと思います。

(写真=本人提供)

「とにかく絶えずお金がなくて、きつかった」

――東京で本格的に音楽の道を目指すようになってからの生活を振り返って、特に苦労したことは何でしたか。

岡平 それはもう、お金がなかったことですね。当時はライブに出演するにもチケット販売のノルマがありました。原宿あたりだとチケットが1枚1800円くらいで、それを20枚から30枚、金額にして3万~4万円分売らなきゃいけない。

 赤字になる人もいましたけど、僕の場合は赤字でも黒字でもなかった。音楽をやって儲けたお金なんて、ほとんどなかったですね。

 洋服が好きなのに買えないから、いつも同じ服だったり。良いギターはそれなりに高いし、録音するためのテープを買うのにもお金がかかりましたから。

――現在は音源制作やライブの告知もスマートフォン一台でできるようになりました。当時は音楽を続けるために必要な環境そのものが、今とは大きく違ったのではないでしょうか。

岡平 ポケベルの時代から携帯に変わっていく頃で、まだ連絡先が50件とかしか入らない頃だったかな。通話料もすごく高くて、1分50円とか、そういう時代です。とにかく絶えずお金がなくて、きつかったですよ。