お金がなさすぎてカップラーメンばかり食べていたら…

――音楽だけでは生計を立てられないなか、生活費はどのように工面していたのでしょうか。

岡平 親には音楽を仕事にすることを反対されていたので、長い間ほとんど連絡を取らずにいて、頼ることもできなかったんです。

 だから、鉄工所、スーパーの品出し、土建、交通整理、ビラ配り、中華料理屋……。とにかくアルバイトを掛け持ちして、お金を稼いでいました。中華料理屋では鍋を振って料理を作ることまではできなかったので、自転車に乗って、おかもちを持って出前をしたりしていましたね。

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 削れるものは食費しかないから、安い菓子パンを買って、それを少しずつちぎりながら一日中食べたり。お金がなさすぎてカップラーメンばかり食べていたら、顔に吹き出物ができたり、10キロくらい太ったこともありました。あのときほど、お母さんが作ってくれた栄養バランスの取れた料理に感謝したことはないですね。

「19」で大ヒット、武道館2デイズのチケットが5分で完売

――まだ成功する保証もなく、将来が見えなかった時期です。「音楽をやめよう」「地元に帰ろう」と思ったことはなかったのでしょうか。

岡平 それはなかったですね。若かったからか、その苦労すら楽しかったんですよ。

 今の年齢で「もう一回同じことをやれ」と言われたら、正直、絶対に無理です(笑)。でも当時を振り返ってみると、楽しかった思い出しかないんですよね。今、あのときの自分に声をかけてあげるとしたら、「楽しい人生が待ってるよ」って言ってあげたいですね。

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 その後、下北沢や原宿で活動するなかでイラストレーター・326(ミツル)さんと出会い、岩瀬さんと3人で「19」を結成。1998年11月に「あの青をこえて」でデビューし、その4か月後にリリースされた「あの紙ヒコーキ くもり空わって」が大ヒット。彼らは一躍、時の人となった。

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――ご両親は、19としてデビューし、活躍する岡平さんをどのように見ていたのでしょうか。

岡平 実は、そんなに手放しで喜んではいなかったんじゃないかな、と思います。

 もちろん応援はしてくれていました。でも、うちはちょっと、ほかの家庭とは違うかもしれません。もともと両親がキリスト教の家庭で、親としては僕に宣教師になってほしかったんです。芸能界という世界にどっぷり入っていく息子を見て、複雑な気持ちもあったんじゃないかと思います。

幼少期の岡平さん(写真=本人提供)

――19としてデビュー後、曲がヒットし、生活や周囲の環境も一変したと思います。「自分たちは本当に売れたんだ」と実感したのは、どんな瞬間でしたか。

岡平 ライブにたくさんのお客さんが来てくれたときですね。あとは紅白(NHK紅白歌合戦)に出たとき。

 当時はネットもない時代なのに、武道館2デイズのチケットが電話受付でわずか5分くらいで売り切れたんですよ。たぶんファンクラブの先行だけでほとんど売り切れていて、一般販売の分はあまり残っていなかったんじゃないかな。

次の記事に続く 「21歳で3000万円の家を親にプレゼントした」19(ジューク)岡平健治(47)が明かす、特大ヒット曲「あの紙ヒコーキ」で得た大金の“リアルな使い道”