刑部芳則の評伝『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』によれば、結婚は明治44年11月。千代は岩国高等女学校の2年生で14歳、藤村亮一は岩国中学5年で17歳だった。病床の父が決めた縁組に、千代が口を挟む余地はなかった。式も形式的に挙げたにすぎなかった。

では、なぜ父は結婚を決めたのか。のちに家族で話し合ったときには、「余命を悟り、生きているうちに娘の嫁ぎ先を決めておきたかったのではないか」という見方が出たと自伝にある。「暗い道を男と歩いた罰だ」という理屈を、千代自身は「架空の設定」と呼んでいる。父の本心は結局、誰にも分からなかったのである。

一言も口をきかなかった初夜

この嫁入りの夜は、若い頃の小説と晩年の自伝とで、異なる情景として描かれている。

ADVERTISEMENT

大正14(1925)年、27歳のときに発表した小説「三千代の嫁入」(『中央公論』2月号)では、嫁入りは「暗い夜」で、花嫁はお下げ髪に瓦斯紡績の羽織姿。ひとりぼっちで連れられて行き、誰も見る者はいない。生母が嫁入りに持参した緋縮緬の下着や白綸子の重ねは、父の酒代に消えていたとも書かれている。

一方、昭和58(1983)年刊の自伝『生きて行く私』では、夜は昼のように明るい月夜になり、仲人夫婦が付き添い、3人の影が路上に落ちる。

小説と自伝という違いもあり、夜の描写だけで記憶が変わったとは言い切れない。

ただ、刑部の評伝によれば、千代は後年、自身の初期作品を偽悪的だったとして退けて、全集にも収めなかった。そして、父の血を受け継いだ自分のことも次第に受け入れていったという。ひとつの結婚が、語る時期によって別の物語になっているのがどこまでも作家らしい。

鉄砲小路の家で、伯母は心から嬉しそうに、息子の部屋に二つ並べて敷いた寝床を指さした。今夜からここで一緒に寝ることになる。だが、千代には亮一の妻になったという実感がなかった。2人は、あの夕方の帰り道と同じように、眠りにつくまで一言も口をきかなかった。まだ子供だった千代は、それでも自分の置かれた場所をおかしいとは思わなかったという。