別の女性との外泊

翌日も、その翌日も、亮一は着物を着替えて出かけ、なかなか戻らなかった。行き先は寿座という芝居小屋のそばの飲み屋だと家の雇い人が教えてくれた。伯母は息子が出かけるたび、寝間着を炬燵で温めてあると千代に言う。まだ中学生の亮一が、毎晩のように行き先も告げず外出しても、この家では誰も咎めない。評伝によれば、亮一は千代を好まず、好みの女性のもとに外泊していた。千代は亮一の日記を盗み見て、自分が嫌われていることを知ったようだ。

食卓の様子も、実家とは違っていた。食事のたびに大きな食卓を家族が囲み、食べ物を取り合っては大声で笑う。一人ずつ箱膳を前に声もなく食べる実家に比べると、それは楽しそうというより異様な光景に見え、そのたびに千代は、「いま頃うちではどうしているだろう」と思いを巡らした。婚家で千代が考えていたのは、夫のことではなく、出てきたばかりの実家のことだった。

10日ほどたった、ある日の午後である。学校の帰り、千代は鉄砲小路へ戻るために渡るはずの錦帯橋を渡らなかった。五つの反り橋を上り下りするのが厄介だったと自伝では理由ともつかない理由を書いている。ついこの間まで通っていた道を、川岸に沿って実家へ歩き、台所へ回って、低い声で継母を呼んだ。彼女は「やれ、千代さんかいの」と応じただけだった。

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実家に帰った時の父の反応は…

父は、時計の間と呼ぶ部屋に床を取っていた。千代が家を出てからずっと臥せったままで、幾度も血を吐いたという。顔はこの10日でまるで変わっていた。眼窩は落ち窪み、骸骨のようだった。千代が声をかけると、父は「足を撫でてくれい」とだけ言った。「なぜ戻った」とも、「早く帰れ」とも言わなかった。

父は病気なのだ。だから、自分はこのまま実家にいてもよい。父の衰えを悲しむより、もう鉄砲小路へ帰らなくてよいことが嬉しかった。千代はそう振り返る。刑部の評伝には、このときの千代の行動を父の看病を口実に、10日ほどで実家へ戻ったと記している。