今こそ戦後を知ろう。なぜなら、現在の私たちはそれによってつくられているからだ。それを学び、何を受け継ぐべきかを腑分けすることで、これからの未来を変えていこう。
そのような志の下、近現代史研究者の辻田真佐憲氏が『「戦後」とは何だったのか 未来を変える日本現代史』(文春新書)を上梓した。
第一章「戦後日本は『平和国家』だったのか」で、辻田氏は憲法九条はリベラル派が言うように「高邁な理想」から生まれたのでも、保守派が言うように「押し付け」られたものでもない、と述べる。
本書から一部を抜粋してお届けする。
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そもそも憲法九条は、高邁な理想だけから生まれたものではない。むしろ、占領下の複雑な政治状況のなかで成立した“妥協の産物”だった。そのため、これを神聖視すること自体けっして好ましいことではない。
この点もまた“不都合な事実”なのか、一般にはあまり知られていない。むしろ、「九条を世界遺産に」といった耳ざわりのよいスローガンばかりが目立っている。
もちろん、平和を尊ぶべきだという意見に異論はない。だが、九条護憲というみずからの政治的な立場を守るために、現実から目をそらしてよいわけでもない。
そのいっぽうで、現憲法についてはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による「押し付け」だったという主張も依然として根強く残っている。
その象徴としてしばしば語られるのが、敗戦翌年の1946(昭和21)年2月13日のできごとだろう。
この日、幣原喜重郎内閣の吉田茂外相や松本烝治国務相らにたいし、マッカーサーの側近で、GHQ民政局の局長として日本の民主化を進めていたコートニー・ホイットニーが突如として独自の憲法草案を示した。そして、これを受け入れなければ天皇の身体を保障できないと伝えたとされる。
日本側は、その5日前の2月8日、GHQの意向を受けて作成した「憲法改正要綱」を提出しており、この日はその回答を受け取る予定だった。
それだけに、GHQ側からまったく別の草案を突きつけられたことは、日本側にとってまさに青天の霹靂だった。
とはいえ、この「押し付け」論もまた、歴史の一面だけを強調した見方だという点で問題をはらんでいる。
では、GHQはなぜ、このように強い態度で憲法草案の受け入れを迫ったのだろうか。
それは、たんに占領者として強権的だったからではない。じつのところ、マッカーサーは早い段階から天皇制を存続させ、それを占領統治に利用する方針を固めていた。
少数の支配者が多数のひとびとを統治しようとする場合、力だけで一方的に押さえつければ、かえって激しい反発を招く。英国のインド統治に見られるように、安定した支配を続けるには、現地に存在する制度や文化をたくみに取り込むことが欠かせない。
米国の植民地だったフィリピンで長く勤務したマッカーサーも、その点をよく理解していた。天皇制を廃止すれば、日本の占領統治はうまくいかない。そのことがよくわかっていたのである。
ただし、「青い目の大君」と呼ばれたマッカーサーも、現実には何でも自由に決められたわけではなかった。この点も、日本ではしばしば見落とされている。
米軍人である以上、米本国の方針を無視することはできなかった。また、連合国軍最高司令官として日本に赴任している以上、英国やソ連をはじめとする他の連合国の意向にも配慮しなければならなかった。
とりわけマッカーサーに重くのしかかっていたのが、1946年2月26日に最初の会合を控えていた極東委員会の存在だった。
極東委員会は、連合国による対日占領政策の基本方針を決定するために1945年12月に設置された機関であり、そこで天皇制の廃止が決められれば、マッカーサーでもそれを覆すことはできなかった。
その介入を避けるには、極東委員会が本格的に動き出すまえに新憲法の草案を整え、日本がすでに民主化を進め、軍国主義と決別しつつあることを示さなければならなかった。そのなかに天皇制の存続を組み込んでしまえば、それを既成事実にすることができる。
しかるに、日本政府が作成していた憲法改正案は、明治憲法の基本構造をほとんど変えない、きわめて保守的なものだった。
その内容の一部が1946年2月1日に『毎日新聞』によって報じられると、マッカーサーは2日後、民政局長ホイットニーに、GHQ独自の憲法草案を作成するように命じた。
その際に示された指針が、いわゆる「マッカーサー三原則」だった。
すなわち(1)天皇制は維持するが、国民主権に基づくこと、(2)戦争の放棄、(3)封建制の廃止である。このうち(2)の戦争の放棄が、のちの憲法九条の原形となった。
民政局はこの方針に基づいて作業を進め、わずか9日ほどで草案を完成させた。そのため、日本国憲法の原案は専門家の十分な参加もないまま、あまりに短期間で作成されたと批判されることがある。
たしかに、その指摘にはもっともな面がある。だが、すでに述べたように、極東委員会が2月26日に最初の会合を開く予定だったため、それよりまえに憲法改正の作業をできるだけ進めておく必要があった。
こうした経緯を踏まえると、ホイットニーの日本側への発言も少し違って見えてくる。それはたんに、「われわれの草案を受け入れよ」と威圧しただけではない。「この案こそ天皇を守るために必要なのだから、受け入れるべきだ」という意味も含んでいたと理解できる。
実際、2月21日には、マッカーサー自身が幣原首相にたいして、極東委員会の名まであげながら、GHQ案は「天皇護持の為めに努めてゐるもの」だと直接説明したとされる(『芦田均日記』)。
当時の日本の指導層にとって、「天皇護持」はなにより優先すべき課題だった。半藤一利の『日本のいちばん長い日』でも象徴的に描かれているように、ポツダム宣言を受諾するかどうかをめぐる議論でも、「国体の護持」は最大の焦点となっていた。
したがって、天皇制の存続が確実になるのであれば、それ以外の部分で大幅な譲歩を受け入れることも現実的な判断となりえた。こうしてGHQ案を土台とすることが決まり、日本政府はGHQ側との折衝を経て、3月6日に「憲法改正草案要綱」を決定・発表した。
なお、この折衝では日本政府とGHQのあいだで激しい応酬があった。ただ、その中心はあくまで天皇にかかわる条項であり、戦争放棄を定めた部分ではなかった。重要なのはあくまで「国体」であり、九条はそのまえではやはり“妥協の産物”にすぎなかった。

