今こそ戦後を知ろう。なぜなら、現在の私たちはそれによってつくられているからだ。それを学び、何を受け継ぐべきかを腑分けすることで、これからの未来を変えていこう。
そのような志の下、近現代史研究者の辻田真佐憲氏が『「戦後」とは何だったのか 未来を変える日本現代史』(文春新書)を上梓した。
その序章で辻田氏は、なぜ戦後史は顧みられてこなかったのかを探る。
本書から一部を抜粋してお届けする。
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戦後史は現代史である。そのため、今日のわれわれに深く関わっている。にもかかわらず、これまで十分に顧みられてこなかった。それどころか、どこか取っつきにくい印象さえある。
なぜだろうか。学校教育で習う機会が少なく、なじみが薄いからだろうか。あるいは、戦国時代や幕末ほど人気のある時代ではないからだろうか。
それだけではあるまい。
戦後史は、われわれを成り立たせている前提そのものである。それだけに、その歴史を掘り返すことは、たんに過去を知ることでは終わらない。当然だと信じてきた価値観や自己認識まで問い直すことになる。戦後史が敬遠されてきた背景には、そうした居心地の悪さもあるのではないだろうか。
たとえば、戦後日本は憲法九条を掲げ、戦死者を出さなかった特別な「平和国家」だと語られてきた。
だが、本当にそうだったのだろうか。実際には、戦後日本にも「戦死者」は存在した。また、日本の平和を支えてきたのは憲法九条だけではない。日米安全保障条約と米軍の存在も、その重要な前提だった。
そう考えると、戦後の平和とはいったい何だったのか、憲法九条はそのなかでどのような役割を果たしてきたのか、あらためて問い直さなければならなくなる。
また戦後日本は、敗戦を境に新しい国へと生まれ変わったと言われてきた。暗いイメージが付きまとう戦前にたいして、戦後は民主化と自由を実現した明るい時代だという単純な図式である。
とはいえ、戦前と戦後をそれほど明確に切り分けることができるのだろうか。有力な政治家や官僚、メディア人のなかには、両方の時代を通じて活躍したものも少なくない。戦前につくられた制度や価値観が、形を変えながら戦後へ受け継がれ、現在のわれわれの身近なところにまで残っている例は多々ある。
そうなると、戦争責任の問題もあらためて問い直さなければならない。「東条英機たちが悪かった」とするだけで、本当に十分だったのか。逆に、戦後に実現したとされる自由や民主主義も、われわれが思っているほどまったく新しいものでも、すべて外から与えられたものでもなかったのかもしれない。
このように問いを突きつめていくと、最後には現在のわれわれ自身が何者なのか問われざるをえない。それまで当然だと思っていたものが、ガラガラと崩れていく。たしかに、これは厄介なことではある。
それゆえ、あえて問い直さず、放置しておいたほうがよい――。戦後史が長く語られにくかった背景には、そうした無意識の忌避もあったのではないだろうか。

