エプスタインに服を脱ぐよう指示された彼女は、過去の経験から「これが人生のあり方だ」と思ったという。何かを得るには、幼い自分の性を差し出さねばならないのだと。
「自分たちの子を産んでくれないか」
ジュフレイは後年、様々なメディアなどでエプスタインの前では自分も楽しんでいる振りをしなければならなかったと語っている。エプスタイン好みの整った顔立ち、スラリとした体型、長いブロンドの髪、演技ではあったものの溌剌とした笑顔によって彼女はエプスタインのお気に入りとなった。
彼女はロンドンにも連れて行かれ、英国のアンドリュー王子(当時)とも性行為を強要された。英国社交界でも名を知られていたマクスウェルが、アンドリューをエプスタインに紹介したのだった。
ジュフレイは計3回、アンドリューとの性交を強制されたと主張している。アンドリューはこれを否定しているが、ロンドンでジュフレイの腰に手を回し、マクスウェルと3人で写った写真が残っている。撮影したのはエプスタインだった。
2002年、ジュフレイはある出来事がきっかけで、エプスタインのもとを離れる決心をした。彼女は死後に出版された回顧録『Nobody’s Girl: A Memoir of Surviving Abuse and Fighting for Justice(誰のものでもない少女:虐待を生き延び、正義のために闘った回顧録)』に、その詳細を記している。
ジュフレイが19歳となった夏、エプスタインとマクスウェルが「自分たちの子を産んでくれないか」と打診したのだ。当時、エプスタインは49歳、マクスウェルは40歳だった。40歳であれば自然妊娠は不可能ではないし、体外受精も可能だ。それなのに、理由は不明だが、2人は若いジュフレイに代理母出産を依頼した。
妊娠・出産の報酬は月額20万ドル(期間は不明)、そのかわり親としての法的権利は一切持たせないというものだった。ジュフレイは2人の子を産み育てる気はなく、この打診を断った。
ジュフレイがもちかけた「提案」
逆に、ジュフレイはタイにあるマッサージ・スクールの学費を出すよう、エプスタインにもちかけた。
19歳となった自分にエプスタインが性的な関心をなくしたことに気づいていた彼女は、これを機になんとかこのエプスタインとの関係から脱け出し自立しようと考えたのだった。エプスタインはタイから女性をリクルートしてくることを条件に出資を承諾した。