1990年代に圧倒的な歌唱力とダンス、ファッションで社会現象を巻き起こした安室奈美恵(1977〜)。2018年に人気絶頂のまま電撃引退し、伝説となった歌姫の軌跡を、SPEEDの一員であり沖縄アクターズスクールの後輩だった今井絵理子内閣府副大臣が振り返る。
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安室奈美恵の格別の輝き
小学校2年生の時、RBC琉球放送の「ホットナイト沖縄アイランド」という番組のカラオケ大会に出場し、決勝まで進んだことがあります。そこで負けた相手が、当時沖縄アクターズスクールの生徒だった安室奈美恵さんでした。沖縄に歌やダンスのレッスンをする学校のような場所があることを知り、「あのお姉ちゃんみたいにもっと歌とダンスをうまくなりたい」と母に懇願して、私もスクールに入りました。
奈美恵さんとは違うクラスでしたが、年に4回ある発表会やミュージカル公演などでは一緒になることもありました。スクールでは年長者を「〜姉ちゃん」「〜兄ちゃん」と呼んでいたので、奈美恵さんのことを私たちは「奈美恵姉ちゃん」と呼んでいました。
奈美恵さんはいつも、鏡の前でひとり黙々と歌や踊りのレッスンをしていたものと記憶しています。履いていた白いリーボックの靴に憧れて、親に同じ靴を買ってもらったこともあります。
奈美恵さんは当時のスクール生のなかでも、格別の輝きを放っていました。公演や発表会でも必ず主役級の存在でしたが、それほど輝いていた奈美恵さんでさえ、沖縄から東京へ出て成功することは、簡単には想像できない時代でした。
私が子どもの頃の沖縄は、今のようなリゾート地ではありませんでした。空港も小さく、国際通りを歩く観光客も今とは比べものにならないほど少ない。成功を夢見て内地に出て行く人は昔からいましたが、訛りをからかわれたりして、悔しがりながら沖縄に舞い戻ってくる人がほとんど。そんな大人たちを見てきたせいか、私は「歌手になって東京で活躍したい」という夢を誰にも話せずにいました。
そんな「沖縄の人は東京で成功できない」という劣等感や諦めを吹き飛ばしてくれたのが、奈美恵さんでした。『TRY ME』(1995年)がヒットして以降、沖縄は「遠い南の島」から、若者が憧れる場所へと変わっていきました。沖縄からでも東京で勝負できる。そう思わせてくれたのです。私もようやく夢を語れるようになりました。その後、私が96年にSPEEDとしてデビューできたのは、奈美恵さんが「不可能」と言われてきた道を切り開いてくれたからに他なりません。
(取材・執筆協力:相澤洋美)
※約1600字の全文は、は月刊文藝春秋のウェブメディア『文藝春秋PLUS』と『文藝春秋』2026年11月号に掲載されています(今井絵理子「安室奈美恵 “沖縄の諦め”を吹き飛ばした」)。

