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なぜ国民意識は変化したか

 阪神淡路大震災を契機に、なぜ自衛隊に対する国民の意識に変化があったのだろうか。いくつか仮説を挙げることはできるが、ひとつは冷戦が終息し、日本周辺の安全保障環境が冷戦期と比しておおむね平穏になった時期と重なる点。実際、ソ連崩壊後初となる1993年度の調査では、災害派遣と回答する人が初めて20%を超えており、増加傾向が見られている。

 もうひとつは、1959年の伊勢湾台風から1995年の阪神淡路大震災までの30年以上、死者数が1,000名を超えるような大きな災害が起きていなかったことだ。防災白書のデータを元に戦後の自然災害による死者・行方不明者数の推移を見ていこう。

©文藝春秋

 1959年の伊勢湾台風以降、長らく平穏な時期が続いていたことがわかる。その間に日本は高度経済成長を遂げ、阪神淡路大震災の被害の様子はカラー映像で全国に配信されるまでになった。災害映像のインパクトは計り知れない。2010年のハイチ地震は東日本大震災の10倍以上の死者行方不明者を出したが、津波が町を襲う様子が世界中に中継された東日本大震災と比べ、明らかに国際的なインパクトは小さかった。1995年当時、多くの日本人が経験していなかった大災害の映像は、その被害の大きさと共に多大な心理的インパクトをもたらしたことだろう。

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「主」を超える「従」に

 阪神淡路大震災を契機に大きく変化した自衛隊に対する国民意識だが、そもそも当の自衛隊ではどうだろうか。先に災害派遣は自衛隊の「本来任務」であると書いたが、この本来任務は「主たる任務」と「従たる任務」に分かれており、災害派遣は従に該当する。主はもちろん国防だ。

噴火した御嶽山に降り立つ隊員たち(陸上自衛隊の公式グーグルフォトアカウントより)

 国防を第一義とする軍隊のマインドにとって、戦闘以外の任務に対する抵抗感が表出することがある。イラク戦争でイラク軍を打倒した後、米第82空挺師団の一兵士が上官に語った次の言葉が象徴的だ。「さあ、もう帰りましょう。私は下水道整備や学校建設の手伝いの最中に銃弾を食らったりするために第82に入隊したのではありません」(福田毅「米国流の戦争方法と対反乱(COIN)作戦」『レファレンス』2009年11月号)。このような一兵士のマインドが象徴するように、戦闘に特化した少数部隊でイラクに侵攻した米軍だったが、この後に治安維持とイラク統治に失敗し、長期に渡り多大な犠牲を払うことになる。

 この米軍兵士ほど露骨ではないものの、自衛隊の災害派遣時でも、任務によっては隊員から不満が漏れることがある。しかし、自衛隊の広報や募集案内を見れば、災害派遣での実績が強調されているし、装備品の調達にあたってもかなり無理して災害派遣に絡めているものもある。国防という「主」と、現実の間に齟齬があるのは否めない。

 災害が相次ぐ現在の日本において、軍事的脅威より災害の方を身近な脅威と多数の国民が感じているのは無理からぬことだ。しかし、国民意識と自衛隊任務の乖離は、望ましいものではないだろうし、自衛隊側も無理してそれに合わせている感もある。任務のありようを見直すか、国民と自衛隊のどちらか、あるいは双方のマインドが変わるべきなのだろうか。