大正9年(1920)、永野明代と結婚して長男をもうけたが、昭和3年(1928)、海軍少将令嬢の西崎盈子と知り合い、初対面で結婚を申し込み、恋仲になる。だが、彼女の両親の反対でいったん破談になると、中村修子との関係を深めて、昭和4年(1929)2月、既婚のまま結婚披露宴を挙げてしまう。ところが、翌3月には西崎盈子と心中騒動を起こす。
たがいにメスで頸動脈を切り、ガス自殺を図ったのである。2人とも救出されたが、東郷ほどの奔放と破天荒は、ほかに類例がないのではないか。
千代はこの東郷の家を訪ね、玉田精磨のときと同様に、押し入れから布団を出して一夜を過ごした。だが、布団の状態が同僚教師の玉田のときと、あまりにも違った。そのときのことを、千代は『生きていく私』に次のように書いている。
〈夜が更けて、さあ寝よう、と言うときになって、「こんな蒲団しかないが」と言って、押し入れから出して来た蒲団には、血痕がこびりついて、がりがりになっていた。二人の男女の頸から流れ出した夥しい血のかたまりになったものだと分かったとき、私はそれを気味が悪いと思っただろうか。そうは思わなかった、と言ったら、人は信じるだろうか。私と東郷青児は、その夜から一緒になった〉
夫がいる身で妻子ある男と同衾
これはいつのことなのか。心中事件からかなり年月が経ってのことなのか。千代はここに時期を明記していないが、引用文の直前には〈頸動脈を登山ナイフで切った。それでもなお、平気で、首に繃帯をまいたまま、街に出かけたりする、一種、人もなげな行動は、このときの私には、何か共感を呼ぶものでもあったのか〉とある。
東郷が〈首に繃帯をまいたまま、街に出かけ〉るのを千代は見ているので、心中事件から時間がさほど経っていないと考えるのが自然だろう。刑部芳則氏はこう記す。
〈千代の回想では、東郷が首の傷口を隠すために布を巻いていたこと、東郷の家で血糊のついた蒲団を使っていたこと、部屋に心中事件の新聞記事が積んであったことからすると、「一月後」の昭和四年四月末と考えるのが自然である(尾形明子『宇野千代』も筆者と同じ見解を示している)〉(前掲書)