1989年11月に新興宗教団体・オウム真理教が引き起こした「坂本弁護士一家殺人事件」。

 あまりに有名な事件でありながら、神奈川県警の初動が鈍かったこと、事件の実行犯が3カ月後に衆議院選挙に立候補していたこと、その立候補者が教団を裏切って教祖麻原を脅して口止め料1000万円を要求し、さらには警察への情報提供を試みたことなど多くの謎が残されている。

 今だからこそ解き明かせる事件の真相を読み解く。

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 犯行現場となった坂本弁護士の自宅には、オウム真理教の「プルシャ」と呼ばれる陶製の白いバッジが残されていた。のちに判明するが、これは実行犯のひとり・中川智正が落としたものである。こうした物証があったため、当初からオウム真理教に疑いの目は向けられていた。

神奈川県警が躊躇した「宗教団体には手を出しづらい」という空気の正体

 ただ1989年11月15日に「坂本一家失踪」の公開捜査が開始された当初、オウム真理教という具体名が表に出ることはなかった。とはいえ、メディアでは「ある新興宗教団体」が関与した疑惑があると報じられており、その文言からも、オウムが関与している可能性を念頭に置いていたことがうかがえる。

坂本弁護士の遺体が発見された現場 ©時事通信社

 そうしたマスコミの追及をかわすかのように、麻原彰晃は11月21日に西ドイツ(当時)のボンへと旅立っていった。12月4日に帰国した麻原は成田空港で記者会見を開き、「プルシャを置いたのは、誰かがオウムの犯行に見せかけるもの」「オウムには動機がない」「オウムこそ被害者」と主張するのだった。

 坂本弁護士宅には現金数十万円が残されており、物色の跡もないから、泥棒や強盗の類ではない。現金や衣服が残っていることから、家出という線も薄い。にもかかわらず、神奈川県警は事件の重大性を認識できておらず、事件か自発的失踪かは五分五分と見ていた。初動捜査で後手を踏んだのである。

「週刊文春」は1990年2月15日号で「事件から早くも三カ月/捜査を長引かせる『この人』の責任」と題する記事を掲載し、捜査本部責任者である古賀光彦神奈川県警刑事部長を糾弾したほどである。