「おたくのハトが航行中の貨物船に保護されている」
「もく星号墜落事故」(1952年)などでも活躍したが、ハイライトは1953年、皇太子(現天皇)がイギリスのエリザベス女王戴冠式に出発した時。
「スピグラと鳩」などによれば、横浜港を出発した客船でくつろぐ写真をどう届けるか。各社のカメラマンは頭をひねった。3月31日、船から東京までは約600キロ。毎日の日沢四郎氏は35ミリフィルム4枚を切り離し、1枚ずつ通信筒に入れて4羽のハトを放った。東京の各社本社では屋上の鳩舎で帰って来るのを待った。すると翌朝、毎日の写真部に海上保安庁から電話が。「おたくのハトが航行中の貨物船に保護されている」。寄港地の静岡県・下田で引き取られた「毎日353号」が運んだ写真は、4月2日付朝刊に「皇太子さま、ほめて…私は力の限り飛んだ」「健気なハト君」の見出しとともに掲載された。
当時、共同通信横浜支局員で最近亡くなった石川隼人氏は「回想共同通信社50年」(1996年)でこの時のことを「『1羽でも帰れば…』という希望的観測をもって10羽が参加、全滅した」と振り返っている。
最後に鳩舎が閉鎖されたのは1966年
そんな「スクープはハトに乗って」の時代も、通信技術の進歩とともに終わりが来る。「スピグラと鳩」は、ハト便を廃止したのは共同が最も早く1959年3月。次いで朝日(東京本社)が1961年、毎日1963年としている。
1959年4月の共同の社報には、担当者の竹之内為吉・発送部主任が「通信バトを省みて」と題して、ピーク時の1949年1年間で「実使用162回、写真搬送465本、記事154本を数えるに至りました」と回顧。「ハトさん、本当に長い間ご苦労さん」と惜別の辞をつづった。
「読売新聞百年史」(1976年)によれば、読売が鳩舎を閉鎖したのは東京オリンピック後の1966年1月。しかし、「最後に使われたのは(昭和)二十九年冬、富士山で起こった遭難事件の取材だった。使われなくなってからも十年間、ハトは鳩舎に飼われ続けた」。「ハトは鳩舎閉鎖とともに愛育家にもらわれていった。だがしばらくの間、本社をなつかしむかのように、何羽となく鳩舎に舞い戻ってきていた」という。
ハトははく製や記念像となっていまも新聞社や通信社の建物の片隅にいる。