千葉県で起きた「鬼熊事件」でもハトが活躍
その後、各社はこぞって活用に力を入れる。「スピグラと鳩」によると、「大正12(1923)年7月27日、天皇陛下(昭和天皇)が摂政宮のころ、富士登山をされた。各新聞社は中野の陸軍省電信隊の鳩を借りて、五合目の山小屋前で殿下を撮ったフィルムを鳩に持たせた。これが伝書鳩による写真輸送の第一号となった」。1926年に千葉県で起きた「鬼熊事件」などでもハトが活躍した。
「毎日新聞百年史」(1972年)によれば、1924(大正13)年6月6日発行の大阪毎日新聞社報には「本社航空課で計画中であった伝書鳩飼育のための鳩舎を英文編集上部三階露台に新設中の所、五月中旬竣功した。右は木造平屋造、トタン張り、建坪七坪半で」「理想的鳩舎」とある。さらに同年8月20日発行の社報は「飼料としては一日一羽に主食玉蜀黍(トウモロコシ)、白豌豆(シロエンドウ)の混合三十瓦(グラム)と嗜好品として玄米、麻の実の混合五瓦、外に三日目に青菜の茎を細かくして百羽に約四百瓦、尚ほ居常舎内に岩塩を備え随意に啄ませた」とした。
1938年7月10日、創刊50周年を迎えた東京朝日新聞は紙面で設備と人員を公表。「伝書鳩総数450羽、1日平均使用53羽、1日飛行距離合計2414キロ」と報じた。ハトの飛行距離は通常約60キロ。勤勉な働きぶりが分かる。
砲煙と弾の中をみごとに原稿を運んできた
広告最大手の電通はかつてニュース配信もしており、「電通社史」(1938年)は「通信鳩の整備」の章で効用を説明している。
「神宮外苑の競技場には各社がそのボックスに専用電話を持って自由自在に本社へ送信をして居るが、それでも少し長い戦況や雑観になると鳩を使う、鳩は五六分で鳩舎に帰って来る、鳩の持って帰った原稿は翻訳を要しない、速記で受信してそれを翻訳するよりも鳩に託した方が遥かに便利である」
当時は記者が書いた記事を電話で読み上げるのを速記記者が受け、翻訳していた。
そして戦争の時代。朝日の社内報「朝日人」1962年8月号には、「鳩の像」と題した元東京本社学芸部付・赤井直恭氏の回顧談が載っている(「朝日新聞社史昭和戦後編」)。
「昭和十二年十一月には、実戦に初めて参加した本社の鳩二羽が前線から上海支局まで、砲煙と弾の中をみごとに原稿を運んできた。『可憐な空の連絡員』と題して、殊勲の写真四枚が当時の紙面を飾っている。まさに、血に彩られた鳩の武勲である」
戦争末期の空襲で新聞各社の社屋が焼かれ、ハトにも被害が出る。掛川喜遊「中部日本新聞十年史」(1951年)には、「昭和二十年三月二十五日の名古屋空襲に、中部日本新聞社も社屋の一部を焼き、伝書鳩のほとんど全部が焼夷弾のため鳩舎もろとも焼死した」と書かれている。