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鳩全盛時代は昭和二十年代の前半だった

 そして敗戦。戦後の食糧難はハトにも及んだ。「共同通信社50年史」(1996年)によると、戦時中の統制機関だった日本新聞会の機関紙「日本新聞報」1945年11月22日号には、「全国で2500羽を超える伝書鳩も飼料不足に陥り、新聞通信13社で組織する日本新聞はと連盟は農林省に飼料増配を要請した」とある。

「鳩全盛時代は昭和二十年代の前半で当時、東京では共同のほか朝日、毎日、読売、中日の各社が同様“伝書鳩システム”を持ち、取材合戦に花をそえていた」

共同通信の伝書バトに撮影フィルムを取り付ける(1948年ごろ撮影) ©共同通信社

「新聞研究」通号303(1976年)で元共同通信写真部の高橋三郎氏は述べている。

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「共同の鳩は、東海道、中央、上越、信越、東北、房総の六方向にむけて訓練されており、方向別に三十羽ずつのグループを作り、現役百八十羽、子鳩や予備が七十羽という構成。一回の出動には五羽が一チームとなり、各々が写真や記事を入れた通信筒を背中や足に装着して帰ってくる。この通信筒は写真の場合は“四×五インチ”の生フィルムを入れて約十五グラムになり、これで百キロから三百キロ位をノンストップで飛び続ける。平均時速は約六十キロ。当時の交通・通信事情からすると、これはまさに“超特急”の便利さ」

「二百五十羽の全部の顔つき、得意な方向などは“個別カード”と呼ばれる記録表に克明に記録されると同時に、鳩係の人達はそれを全部知っていた」

筆者が集めた「伝書鳩」の資料

生命を賭して報道任務を全うした

 ハトは途中で大きな鳥に襲われたり、“道に迷ったりして”帰ってこないことも日常茶飯事。「中部日本新聞十年史」には訓練中のエピソードも。

「タカかハヤブサにおそわれ胸部を胃に達するほど食い裂かれながらこれに屈せず、僚友鳩とともに同時に帰来、食べたエサが裂かれた胃袋から体外へ洩れるほどの重傷であったことなど、それが帰来することが本能であるにしろ、生命を賭して報道任務を全うしたものといえよう」