血判状に名を連ねた面々はいわゆる「大塚派」で、その関係はのちのジャパンプロレスにもつながっていく。

「たしかにこれは大塚軍団だね。大塚さんは営業として実力のある人で、現場でカネが動いているのを見ているから、それが全部ハイセルに持っていかれるのはシャクだったんだろうね。ただ、大塚さんだって怪しいよ。部下の営業部員を束ねて軍団みたいになってたけど、みんないい時計して、オーダースーツの裏地がエルメスだったりするんだよ。どこにカネがあんのかって感じだったね。

 あの頃はプロレス業界全体の経理が雑だったから、いくらでも中抜きできたんじゃないかな。地方興行の売り上げなんてミカン箱に1万円札を放り込んで足で踏んでたっていうから。だから、あいつらだってそれなりにやってんだよ。でも、ハイセルは文字どおり桁が違ったから、そこは止めないといけないという考えだよね」

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永源が抱いた「猪木への不満」

 のちにジャパン、全日本プロレスで谷津と長い付き合いになる永源は、当時、猪木に不満を抱いていたという。

「永源さんは猪木さんとはそんなに関係がよくなかったね。やっぱり社債がよくなかったでしょ。あんなのカツアゲというか、みんな出さざるを得ないんだから。

 逆に永源さんが仲良しだったのが、営業の大塚さん。永源さんはヤクザ屋さんのほうと関係が強くて営業力があったからだろうね。グレート小鹿さんと同じだよ。もともと相撲取りはアッチ系とのつながりが太いんだよ。あとはミスター高橋さんも猪木さんと仲良くなかった。まあ、高橋さんなんて、誰とも仲のいい印象がないけど。栗栖さんは大塚さんと仲良かった。小林邦昭さんとかアニマル浜口さん、木戸修さんあたりは長州に引っ張られてクーデターに加わったんだろうな」

 83年8月29日の取締役会で、猪木は新日本の社長を辞任。新間寿も辞表を提出した。新たな経営陣として山本小鉄とテレビ朝日からの出向役員二人によるトロイカ体制が始まった。そして83年10月、谷津に帰国命令が下される。