新日本を離れて消えた猪木との縁
谷津の維新軍入りからまもなくしてトロイカ体制は崩壊し、猪木が社長に復帰。大塚は新日本を退社し、83年12月に「新日本プロレス興行」というプロモーション会社を立ち上げる。新間は新日本を辞職後、新団体UWFの設立を画策。新日本はUWFへの選手流出を防ぐため、テレビ朝日と専属契約を結び、選手の囲い込みを行った。
「専属契約をしたのは覚えている。みんなが動けないようにするためにカネを積んだということだよね。でも結局、俺はUWFには誘われてない。前田(日明)や佐山(聡)とは接点がなかったし、考え方も違ったからね。新日本の道場ではヒンズースクワットを何千回もやったり、関節技の練習とかをひたすらしてたわけでしょ。
要するにゴッチの世界だよね。俺は、そんなのナンセンスだって思ってたから。スクワットなんて膝壊すだけじゃねえかって。あのスタイルはプロレス小僧の幻想というか、本当の強さとは別ものだよね。ただ、UWFに行った連中はみんなルックスがよかったよね。ジャパンプロレスなんて、お化けみたいなツラばっかりだよ。永源さんとか俺とかな」
新日本道場の練習を否定する谷津だったが、レスラーとしての猪木の実力は相当なものだったと認めている。
「猪木さんと1回だけスパーリングをやったことがある。体が柔らかいし、体幹は強くて、グラウンドもうまかったね。藤原(喜明)さんとも2回くらいやったけど、ああいう関節技はなかなか決まるもんじゃないんだよ。それだとなかなかスパーリングが終わらないから、最後は藤原さんに取らせたけどね。猪木さんはプロレスでいえばアメリカンスタイルが得意。でもそれだと馬場さんの全日本に対抗できないから、格闘技っぽいストロングスタイルに行った。それはビジネスとして正しいと思うよ。
俺は84年のパキスタン遠征(76年に続く2回目)に行ってるんだけど、長州に『お前は猪木さんのボディガード役だから』って言われたんだよ。猪木さんは強いから大丈夫だし、ボディガード役なら藤原さんがいると思ってたんだけど、『いや、藤原さんはもう無理だから、何かあったらお前が行け』って。
だったら長州が自分で行けよって思ったけど、長州はそういうのは絶対にやらない。たしかに会場には不穏な空気が漂ってた。猪木さんは現地では英雄だと聞かされてたけど、(アクラム・)ペールワンの腕を折ったんだから(76年の第1回パキスタン遠征)、逆恨みしているような連中もいたみたいだしね。俺は一応試合は組まれてたけど、なくてもいいような試合だったから、これは本当にボディガードとして連れてこられたんだなって悟ったよ。ただ、パキスタンはやたらと蚊が多くて、食い物は毎日カレーだけで、早く日本に帰りたいって思ってたね」