〈vs. 天才数学者〉と〈シラノ・ド・ベルジュラック〉

 構想段階で聞かされていたキーワードは2つ――〈vs. 天才数学者〉と〈シラノ・ド・ベルジュラック〉だったという。シリーズ屈指の存在感を誇る石神哲哉のことだ。湯川の親友でもあった彼は、大学時代の恋心を抱いていた隣人・靖子が犯した殺人を隠ぺいするために完璧な計画を立て、湯川や捜査陣の前に立ちはだかった。

「石神は映画での堤真一さんのイメージが強い人が多いと思うんですけど、原作では“ダルマの石神”というあだ名で、醜男(ぶおとこ)であることがより強調された表現が多い。鼻の大きな自分の容姿をコンプレックスに思い、愛する女性のために別の美男子との恋を応援してしまうシラノのイメージが石神には投影されていますよね」

Ⓒ2008 フジテレビジョン アミューズ S・D・P FNS27社

「ものすごい原稿が来ちゃいましたよ……」

 連載が進むなか、ある回の原稿を一読した別宮さんは、「これは傑作だ!」と確信した。その瞬間のことを今でも鮮明に覚えている。最終回の直前、元夫殺しの罪を犯した靖子に湯川が自身の推理を明かす場面だ。愛する女性を守るため、石神が犯した驚くべき“献身”は、古今東西、誰も思いつかなかったようなトリックだった。衝撃を受けた別宮さんは読み終わった原稿を手に持ったまま、よろよろとした足取りで単行本担当のもとへ向かった。

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「ものすごい原稿が来ちゃいましたよ……」

 書籍化されるとたちまちベストセラーとなった。主要なミステリー賞、ランキングを総なめにした他、6度目の候補入りとなった直木賞も遂に射止めた。それまでの選考では、作家としての実力は認められていながらも、内容が軽い、人間が描けていないなどの評価をされることの多かった東野作品だったが、この時は他の候補作を圧倒する高評価を得た。

受賞会見で「寂しくなるかな」と微笑み

 阿刀田高さんが「推理小説が長年培ってきたなぞ解きへの挑戦であり、“もう新しいなぞはありえない”と言われる現況のなかでこのジャンルの本道をみごとにクリアーしている」とミステリーの文脈で功績を評価すれば、平岩弓枝さんは「ひたすら人間を描くことと、事件の謎ときが渾然と一つに溶け合っている」と文学性の高さを認めた。

 受賞会見で「(落選の後、仲間たちと選考委員の悪口を言いながら酒を飲めなくなるのが)寂しくなるかなと思ったけど、やっぱり今日は勝てて良かった」と微笑んだ東野さんと、別宮さんや各社担当者たちはその夜、銀座を何軒もハシゴして祝杯を重ね、バカ騒ぎした。朝方になって仕事場までハイヤーで見送ったのを今でもよく覚えているという。