批判には「作品によってのみ回答するのが東野さんのスタイル」

 福山雅治さん主演の映画の成功もあり、現在までに330万部を超える規格外のベストセラーとなっている『X』だが、ネガティブな評価がなかったわけではない。それらは人口に膾炙(かいしゃ)したからこそ、あるいは宿命的にミステリーがある種の弱点を持っているからこそのものでもあった。

 長く議論になったのは、別宮さんも衝撃を受けたトリックに関するものだ。石神が犯罪の隠ぺいのために用いた方法が、たとえ小説であってもヒューマニズムに悖(もと)るのではないか、と。

「批判についてどう思っていらしたのかは分かりません。公に反論することもなければ、私たち担当編集者に対してでさえ、口を開くことは一度もなかったので。作品によってのみ回答するのが東野さんのスタイルでした」

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「人の心に興味はなかった」天才物理学者を変えた『X』

 ただ、その後のシリーズ作品にある変化が起きているようには感じていた。

「特に初期の短編はトリック重視の本格ミステリーを特徴にしていたけれど、次第に犯罪に関わってしまった者たちの人間ドラマの色合いが濃くなっていった。『X』を経て、トリックばかりを追求するものはもう書けない、殺す側、殺される側それぞれが背負っている人生に対する思いを強くしていったんじゃないでしょうか」

 捜査のためとはいえ、親友の秘密を暴いてしまった。そのことで迎えた悲劇的な結末と苦悩は、湯川のその後の人物造形にも大きな影響を与えている。以後、いかに鮮やかなトリックを描くかはもちろん、事件がどんなふうに解決されるべきかにもより力点が置かれるようになってきた。シリーズ6作目『真夏の方程式』で東野さんは、事件解明に動く湯川にこんなセリフを言わせている。

「今回の事件の決着を誤れば、ある人物の人生が大きく捻じ曲げられてしまうおそれがある。そんなことは、何としてでも避けなければならない」

 作中での言及はないが、どこか石神を想起させる言葉だ。この名探偵の傲慢性とでもいうべきものに対する自戒の念は、『永遠の記憶』にまで貫かれている。「人の心に興味はなかった」天才物理学者を変えたのが『X』だった。

物理、数学、そして努力の天才

 東野さんの快進撃は止まるところを知らなかった。出す作品すべてがベストセラーになり、映像化や海外翻訳のオファーは引きも切らなかった。この間、数多のベストセラー作家が生まれたが、こんなふうに売れ続けた作家は他にいない。何が東野さんを特別たらしめたのか。あえて一つあげるとすれば、と別宮さんに問うと、この日一番強い語調で答えてくれた。

「努力を続ける天才だったからです。常に努力し、進化し続けようとされていた。その努力を緩めることは絶対になかった。他の作家の方々と決定的な違いがあるとすればそこだと思います」

 文章の一つ一つ、テーマ、本全体のパッケージングに至るまで、作品全ての局面で読者が手に取らない理由を潰していく作家だった。他の作家の優れた作品もよく研究していたという。

「出した本が売れなかったとしたら、売れなくて残念だった、また頑張ろうで終わるのが普通です。でも東野さんはその理由を考え続けた。最後は屁理屈でも良いから何か見つけようとさえしていたくらいです」